吉岡清十郎
Yoshioka Seijūrō
解説
吉岡清十郎は、京で代々足利将軍家の剣術指南役を務めた名門・吉岡流(京八流の一つ)の当主である。祖とされる吉岡憲法(直元)以来、吉岡家は剣術家として将軍家に仕え、その技は「京流」とも称された。一方で吉岡家は染色業(吉岡染・憲法染)でも名を馳せた家柄であり、剣術と染色の両面を家業とする京の名門として知られていたが、室町幕府の権威が揺らいだ清十郎の代には、剣術家としての実力そのものが世に問われる時代を迎えていた。
慶長9年(1604)、諸国修行中であった宮本武蔵が吉岡流に挑戦状を叩きつけ、京の洛外・蓮台野(一乗寺下り松とも伝わる)で清十郎との決闘に及んだとされる。伝えられるところによれば、武蔵は木刀を、清十郎は真剣を手にして対峙したが、武蔵の一撃が清十郎の腕を打ち砕き、勝敗は一瞬で決したという。一命は取り留めたものの、この敗北を恥じた清十郎は剣術家としての道を捨て、出家したと伝わる。
その後、清十郎の弟・伝七郎が兄の雪辱を期して武蔵に挑むも敗れ、さらに一門の門弟たちが一乗寺下り松に多勢で待ち構えて挑んだ「一乗寺下り松の決闘」でも武蔵に打ち破られたと伝わる。これら一連の敗北により、京八流の一つに数えられた名門・吉岡流は急速に衰退していったとされる。この決闘譚は宮本武蔵の生涯を語るうえで欠かせない逸話として、清十郎の没後百年近く経て編まれた『二天記』をはじめとする後世の伝記類や剣豪物語に繰り返し取り上げられ、日本剣術史上屈指の名勝負として語り継がれている。ただし『二天記』の成立は決闘から約百年後であり、細部の伝承には後世の脚色が加わっている可能性も研究者から指摘されている。