※画像はイメージです。有馬晴信
Arima Harunobu
解説
概要
有馬晴信(1567-1612)はキリスト教信仰の熱心な大名で、肥前国島原の領主。洗礼名はドン・プロタシオ、後にジョアン(João)。天正遣欧少年使節を派遣し、南蛮貿易に積極的に取り組んだ。戦国末期から江戸初期にかけて活躍し、慶長17年(1612)、岡本大八事件により死を命じられた。
信仰と外交
天正8年(1580)に洗礼を受けてキリスト教に入信。天正10年(1582)、大村純忠や大友宗麟と共に天正遣欧少年使節をローマに派遣した。天正12年(1584)の沖田畷の戦いでは、教皇から贈られた聖遺物を胸に懸け、軍旗に大十字とイエス・キリストの名を記して龍造寺隆信を撃破。
軍歴と豊臣・徳川への仕官
天正15年(1587)の秀吉の九州征伐では島津氏と縁を切って豊臣勢に加わり、豊臣氏に仕えた。文禄・慶長の役(1592-1598)では大陸出兵に参加。関ヶ原の戦い(1600)では東軍に属し、眼病の晴信に代わって子の直純が小西行長の宇土城攻めに出陣した。慶長14年(1609)には幕府の命で高山国(台湾)に家臣を派遣して貿易の可能性を探るなど、南蛮貿易に最も積極的な大名の一人だった。
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と最期
マカオで晴信の朱印船の乗組員がポルトガル側に多数殺された事件が転機となった。晴信は徳川家康の許しを得て、マカオの総司令官アンドレ・ペソアが乗るポルトガル船「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」を慶長14年12月(1610年1月)に長崎で攻撃し、ペソアは船を爆沈させた。晴信はこの功による旧領回復を望んで本多正純の家臣・岡本大八に多額の金品を贈ったが、大八の詐欺が発覚した岡本大八事件の中で、大八から長崎奉行・長谷川藤広の殺害を企てたと訴えられた。慶長17年(1612)3月に甲斐国へ流罪となり、同年5月7日、配所で死を命じられた。キリシタンであった晴信は自害を選ばず、家臣に首を斬らせたと伝えられる。