※画像はイメージです。万延(まんえん)
Man'en Era
万延(まんえん)は1860年から1861年まで続いた、江戸時代末期のごく短い元号である。安政7年3月18日に改元され、翌万延2年2月には早くも文久へ改元されており、在位期間は1年足らずであった。改元直前の安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩浪士18名に暗殺される「桜田門外の変」が起きている。襲撃に加わった浪士たちが実際に佩用した刀の銘や寸法が史料に残っており、幕末の実戦刀剣を知る貴重な記録となっている。
解説
ごく短い元号と桜田門外の変
万延は1860年(万延元年)から1861年(万延2年)まで続いた、江戸時代末期のごく短い元号である。安政7年3月18日に改元され、翌万延2年2月には早くも文久へと改元されており、在位期間はわずか1年足らずであった。改元直前の安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、江戸城桜田門外において、大老井伊直弼が水戸藩・薩摩藩出身の脱藩浪士18名によって暗殺される「桜田門外の変」が発生している。同年内の出来事であることから、万延期を語る歴史的文脈として広く言及される事件である。
襲撃に用いられた刀剣の記録
この事件は刀剣史の観点からも特筆すべき記録を残している。井伊直弼の首級を挙げた薩摩藩士・有村次左衛門が振るった刀は、同じ薩摩藩士・奈良原喜八郎から借用した「関孫六兼元」の二尺六寸(約79センチ)の大業物であったと伝わる。襲撃を指揮した関鉄之介は越前千代鶴の二尺三寸を、広岡子之次郎は無銘の新刀二尺五寸六分を、稲田重蔵は備前長船永正祐定を、佐野竹之助は水戸鍛冶・初代勝村正勝作の三尺刀を、それぞれ佩刀していたと記録される。他の水戸浪士の多くも、水戸の刀工・勝村正勝が鍛えた二尺八寸から三尺に及ぶ剛刀を用いていたとされ、水戸藩における尊皇攘夷の気風と地元刀工との結びつきをうかがわせる。
新々刀期の作風との関わり
万延期の刀剣は新々刀期の後半にあたり、水心子正秀・大慶直胤・源清麿ら「江戸三作」が確立した相州伝・備前伝復古の作風が、その門流を通じて広く継承されていた時期である。桜田門外の変で用いられた刀の多くが二尺六寸から三尺という当時としては長大な部類に属することは、この時代の刀剣が観賞用ではなく実戦兵器として選び取られていたことを裏付けている。
社会的文脈
大老暗殺という前代未聞の事件により幕府権威は大きく揺らぎ、諸藩の志士たちが刀を帯びて政治的行動に走る争乱の時代へと突入していく転換点となった。刀剣は単なる武具を超え、尊皇攘夷という政治思想を体現する象徴的な道具としての性格を強めていくことになる。
この時代の刀の特徴
- 万延(1860-1861年)は安政7年3月18日改元、翌万延2年2月に文久へ改元された1年足らずの短い元号
- 改元直前の安政7年3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩浪士に暗殺される「桜田門外の変」が発生
- 有村次左衛門の関孫六兼元二尺六寸など、襲撃者各人の佩刀の銘・寸法が史料に記録されている
- 水戸鍛冶・勝村正勝作の二尺八寸〜三尺の剛刀を用いた水戸浪士が多かった
- 新々刀期後半にあたり、江戸三作の相州伝・備前伝復古の作風が門流を通じ継承されていた
- 大老暗殺を機に幕府権威が揺らぎ、刀が尊皇攘夷の政治思想を体現する道具としての性格を強めた