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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
長元元年〜4年(1028年〜1031年)
長元元年〜4年(1028〜1031年)、房総三国(上総・下総・安房)で勢力を誇った平忠常が受領支配に抗して挙兵。初代追討使・平直方は3年にわたり鎮圧できず、代わって甲斐守源頼信が追討使となると忠常は戦わずして降伏。乱の平定は河内源氏の東国進出と武家台頭の起点となった。
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観応元年〜2年(1350〜1352年)
観応元〜3年(1350〜1352年)、室町幕府内で起きた足利尊氏と弟・直義の内紛。尊氏の執事・高師直が直義と激しく対立し、師直誅殺後は尊氏・直義が和解するも直義が毒殺されて終結。南北朝の動乱を更に複雑化させた幕府最大の内部対立。
継体天皇21年〜22年(527年〜528年)
継体天皇21〜22年(527〜528年)、朝鮮半島南部への出兵を図るヤマト王権に対し、北部九州を独自に支配していた筑紫君磐井が新羅と結んで進軍を妨害。物部麁鹿火率いる王権軍との激戦の末に鎮圧された、記紀に記録された古代最大級の地方反乱である。
皇極4年(645年)6月12日
皇極4年(645年)6月、中大兄皇子と中臣鎌足が宮廷内で蘇我入鹿を暗殺。上代の直刀が実際に政治的暗殺に用いられた事例として、日本刀の源流を語る上で重要な歴史的事件。
治承4年10月20日(1180年11月9日)
治承4年(1180年)10月、駿河国富士川(現・静岡県富士市)で行われた源平の野戦。伊豆に挙兵した源頼朝率いる東国武士団が、平維盛の率いる追討軍に対して大勝した合戦。平家軍は水鳥の羽音に驚いて潰走したという伝説的エピソードで知られるが、実態は東国武士が急速に結集した頼朝への求心力を示す歴史的一戦であった。
治承4年(1180年)8月23日
治承4年(1180年)8月23日、伊豆で挙兵した源頼朝が相模国石橋山で平氏方・大庭景親の大軍に大敗した戦い。頼朝は九死に一生を得て安房国へ逃れ、東国武士団を再結集して同年10月に鎌倉入りを果たす。生涯唯一とも言われるこの敗北が、鎌倉幕府創設への転機となった。
治承4年〜建久3年(1180〜1192年頃)
治承・寿永の内乱(1180〜1185年)から文治・建久年間(1185〜1199年)にかけて、貴族(公家)中心の院政支配が崩壊し、源頼朝を棟梁とする武家政権(鎌倉幕府)が日本の支配体制を塗り替えた大転換。刀剣が武士の魂・権威・官職の象徴として制度化された歴史的移行期。
永禄年間(1558〜1570年)頃
戦国時代中期の永禄年間(1558〜1570年)、上泉伊勢守信綱(1508年頃生)が陰流を発展させて新陰流を創始した。信綱は革袋に入れた割竹(袋竹刀)を考案して稽古に革命をもたらし、「殺人刀」ではなく相手を制する「活人剣」の思想を体系化した。永禄7年(1564年)には足利義輝の前で天覧演武を行い、その後、柳生宗厳に奥義を伝えて柳生新陰流の基礎を築いた。
永禄8年5月19日(1565年6月17日)
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆と松永久通の軍勢が将軍足利義輝の御所を急襲し、義輝を殺害した事件。義輝は床に複数の名刀を突き立てて、刀身が血で滑ると次々と刀を持ち替えながら最後まで奮戦したと伝わる。義輝の母・慶寿院も同日自害した。日本史上最も刀剣と縁の深い最期として知られ、「剣豪将軍」と称された義輝の生涯を象徴する歴史的事件。
永禄8年〜永禄9年(1565年〜1566年)
永禄8年(1565年)から翌年にかけて、毛利元就が出雲国の尼子氏の居城・月山富田城を包囲・攻略した合戦。難攻不落として名高い月山富田城を1年余りに及ぶ兵糧攻めで陥落させた元就は、中国地方の覇権を確立した。尼子氏は滅亡し、出雲は毛利領となった。
永禄7年(1564年)正月3日
永禄7年(1564年)正月、北条氏康・氏政父子が率いる後北条軍が里見義弘の軍を国府台(現・千葉県市川市)で大破した合戦。里見氏の上総侵攻を阻止し、北条氏の関東支配を確固たるものとした戦いであり、戦国東国史における重要な節目である。
永禄3年〜元亀元年(1560年〜1570年、複数次にわたる攻防)
永禄3年(1560年)から元亀元年(1570年)にかけて、越後の上杉謙信が下野国唐沢山城(現・栃木県佐野市)の佐野昌綱に対して繰り返した一連の攻防。関東七名城の一つに数えられる堅城を前に謙信はついに完全制圧できず、昌綱は上杉・後北条の二大勢力の間で降伏と離反を繰り返しながら佐野氏の存続を果たした。
永禄12年1月〜5月(1569年2月〜6月)
永禄12年(1569年)1月〜5月、徳川家康が今川氏真の籠もる遠江国掛川城を包囲した戦い。桶狭間の戦い(1560年)で父・義元を失い、武田信玄の侵攻(1568年)で今川領が崩壊する中、氏真は最後の拠点・掛川城に立て籠もった。最終的に氏真は開城・降伏し、名門・今川氏は戦国大名としての命脈を絶った。「武よりも歌・蹴鞠」として知られる氏真の末路は、武家の覇権争いにおける刀剣文化の残酷な現実を映し出している。
永禄12年10月(1569年)
永禄12年(1569年)10月、武田信玄の甲相駿三国同盟破棄後の相模侵攻において、小田原包囲から撤退する武田軍を追撃した北条軍との激突。三増峠(現・神奈川県愛甲郡愛川町)において武田軍が北条追撃隊を破り、甲斐への帰還に成功した合戦。山県昌景が活躍した赤備えの騎馬隊による突撃が名高い。
永禄11年9月12日(1568年)
永禄11年(1568年)9月、上洛を目指す織田信長の大軍が南近江の六角氏を攻撃。支城・箕作城が一夜で陥落すると、六角義賢・義治父子は本城・観音寺城を放棄して逃走した。日本最大級の中世山城が無血で開城した象徴的な事件。
永禄10年4月18日〜10月11日(1567年)
永禄10年(1567年)4月から10月にかけて、松永久秀・三好義継連合軍と三好三人衆・筒井順慶連合軍が奈良で激突。10月10日夜の松永軍の夜襲を機に出火し、東大寺大仏殿と大仏の仏頭が焼失する未曽有の惨事となった。
永正3年(1506年)〜永正18年(1521年)
永正年間(1506-1521年)、越後の長尾為景による反乱から派生した関東・越後・北陸を舞台とした大規模な内乱。古河公方家と関東管領上杉家の対立が深刻化し、やがて越後の長尾為景が介入して複雑な勢力争いが展開された。長森原の戦いで上杉顕定が戦死し、関東管領権の弱体化が進行。やがて後北条氏が関東進出の機会を掴み、戦国大名化への道を開いた。室町幕府の衰退と大名権力の飛躍的な成長を象徴する事件である。
永正14年(1517年)10月22日
永正14年(1517年)、安芸国で起こった有田中井手の戦いは、若き毛利元就の初陣として名高い。尼子氏の支援を受けた安芸の旧守護・武田元繁が吉川氏の有田城を攻めたのに対し、毛利・吉川連合軍が迎え撃った合戦で、寡兵の連合軍が武田方の勇将・熊谷元直を討ち取り、さらに大将・武田元繁をも流れ矢で斃して大勝した。「西の桶狭間」とも称される。
永保3年〜寛治元年(1083〜1087年)
永保3年〜寛治元年(1083〜1087年)、陸奥・出羽で勃発した東北の覇権争い。源義家が清原氏の内紛に介入し、金沢柵を陥落させて覇権を確立。前九年の役と並ぶ東北二大戦役として、源氏の武威と「奥州合戦の伝統」を作り上げた。
永享10〜11年(1438〜1439年)
永享10〜11年(1438〜1439年)、室町幕府第6代将軍・足利義教が鎌倉公方・足利持氏を討伐した合戦。独立性を高める持氏に義教が反発し、関東管領・上杉憲実が持氏と対立。幕府軍の支援を受けた上杉方が勝利し、持氏は自害。関東における足利一族の独立政権が終焉を迎えた。
正長元年8月〜翌年(1428〜1429年)
正長元年(1428年)8月、近江の馬借蜂起を契機に京都・畿内に広がった日本史上初の大規模土一揆。農民・馬借が徳政(借金帳消し)を要求して土倉・酒屋を襲撃。幕府は赤松満祐を通じて鎮圧を図ったが、奈良では興福寺が徳政を認める事態となった。民衆の組織的武力行動が歴史に初登場した記念碑的事件。
正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)
正平3年/貞和4年(1348年)、河内国四条畷で楠木正行・正時兄弟の南朝軍と高師直・師泰の室町幕府軍が激突した戦い。兵力に劣る正行は奮戦の末に討死し、南朝は本拠・吉野を失う大打撃を受けた。
正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)
正平14年/延文4年(1359年)、筑後国大保原で征西将軍懐良親王・菊池武光ら南朝方と少弐頼尚・直資父子率いる北朝方が激突した、南北朝期九州最大規模の合戦。日本三大合戦の一つに数えられる。
昭和30年(1955年)〜現在
昭和30年(1955年)、日本政府は重要無形文化財保持者(通称・人間国宝)制度を発足させた。日本刀の鍛刀技術は当初から認定対象となり、第一回認定者には高橋貞次(1955年)・宮入昭平(1963年認定)らが選ばれた。この制度は戦後GHQ接収の危機を経て「文化財」と公的に規定された日本刀鍛冶の技術を国家が最高位で承認するものであり、以降の天田昭次・隅谷正峯・宮入法廣ら歴代人間国宝によって継承され、現代刀剣文化の礎を築いた。