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永禄8年〜永禄9年(1565年〜1566年)
出雲国能義郡富田(現・島根県安来市広瀬町富田)
勢力
毛利軍
尼子軍(籠城方)
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永禄8年(1565年)から永禄9年(1566年)にかけて、毛利元就は出雲国(現・島根県)の雄・尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)を包囲・兵糧攻めにし、ついに尼子義久を降伏させた。この「月山富田城の戦い(第二次)」の勝利により、毛利元就は中国地方全域を実質的に支配下に収め、西国最大の戦国大名としての地位を確立した。
月山富田城は、出雲の富田山(標高184m)に築かれた山城で、三方を飯梨川に囲まれた天然の要害である。尼子氏は室町時代後期から戦国時代にかけて出雲・石見・隠岐など山陰の諸国を支配する有力な守護大名で、最盛期には中国地方の約8カ国を支配した。月山富田城はその本城として、難攻不落の名城として知られていた。
毛利元就(1497年〜1571年)は安芸国(現・広島県)の小豪族の出身でありながら、謀略と外交と軍事を巧みに組み合わせて中国地方の覇者にのし上がった希代の戦略家である。三人の息子——長男・隆元、次男・元春(吉川家へ養子)、三男・隆景(小早川家へ養子)——に「三矢の訓(みつやのおしえ)」として団結を説いたとされる逸話は、日本史において最も有名な父の訓戒のひとつである。
元就は陶晴賢との厳島の戦い(天文24年・1555年)で大内氏の実権を握っていた陶晴賢を奇策で撃破し、大内氏を乗っ取ることで山口を中心とした西国の覇権を確立した。次の標的は出雲の尼子氏であった。
実は毛利元就による月山富田城攻めは二度行われている。第一次(大永3年・1523年頃)は若き日の元就が大内氏の援軍として参加したが失敗に終わった。第二次(永禄8年〜9年・1565年〜1566年)は元就が中国統一の最終段階として自ら主導した包囲戦である。
第二次の攻略において、元就は力攻めを避け、長期の兵糧攻めを主戦略とした。月山富田城は山城の特性上、攻城側には不利な地形であり、正面攻撃では多大な損害を受ける可能性があった。元就は城周辺の要衝を押さえ、補給路を遮断することで、籠城する尼子方を干殺しにする戦略を選んだ。
吉川元春(次男・元春が吉川家を継承したもの)と小早川隆景(三男・隆景が小早川家を継承したもの)が毛利軍の東西の要として包囲を担った。この「毛利・吉川・小早川の三本の矢」による包囲網は約1年にわたって機能し続け、ついに城内の食糧が尽きた永禄9年(1566年)11月、尼子義久は城を開いて降伏した。
尼子氏は出雲・石見を支配する大名として、地域の刀工を保護・育成してきた。出雲国は古来より良質の砂鉄(玉鋼の原料)の産地として知られており、島根・鳥取県境付近の山間部では「たたら製鉄」が盛んに行われた。このたたら製鉄から生産される玉鋼は、日本刀の素材として最高品質のものであり、出雲・石見の刀工はこの優れた素材を活かして名刀を製作してきた。
尼子氏が滅亡し月山富田城が毛利の手に渡ったことで、出雲の刀工の保護者も変わった。毛利氏は中国地方全体の刀工を支配下に置き、広大な領地からの玉鋼・砂鉄の供給体制を掌握した。特に備前(現・岡山県)の長船派を中心とする備前刀工群も、毛利領の拡大とともにその影響下に入った時期があった。
月山富田城落城後、尼子氏が所蔵していた名刀の多くは毛利氏に接収されたと考えられている。「大包平(おおかねひら)」は備前長船の名工・包平の作であり、かつて尼子氏が所持していたとの説があるが、現在は岡山県立博物館に収蔵されている国宝である。真偽は定かでないものの、尼子氏から毛利氏への刀剣の移転を示す象徴的な例として語られることがある。
毛利元就は個人的な剣の使い手としてよりも、謀略・外交・情報収集に長けた知略の将として名を馳せた。しかし元就が刀剣を全く重視しなかったわけではなく、中国地方統一の過程で獲得した名刀を政治的ツールとして活用したことが記録されている。
元就は有力な武将・盟友への名刀の贈与を外交手段として用い、また家臣への恩賞として刀剣を下賜した。「三矢の訓」で示した「一本では折れるが、三本まとめれば折れない」という哲学は、まさに毛利・吉川・小早川が一体となって月山富田城を攻略した現実を象徴している。
月山富田城の戦いの歴史的意義は、毛利氏による中国地方統一の完成にある。この勝利によって、毛利元就は安芸の一豪族から中国地方8〜10カ国を支配する西国最大の戦国大名へと成長した。
また、出雲・石見という優良なたたら製鉄地帯を支配下に収めたことで、毛利氏は日本刀の原料である玉鋼の重要な供給源を掌握した。この資源的優位は、毛利氏が後に織田信長・豊臣秀吉と対峙した際(備中高松城の戦い等)に、西国における軍事力の基盤を支えた要因のひとつである。
尼子氏滅亡と毛利氏の出雲支配確立は、出雲・石見の刀工の活動に直接的な変化をもたらした。従来の尼子氏の保護下で発展した地域的な刀剣生産は、毛利氏の広域支配体制に組み込まれ、より広大なネットワークの一部となった。出雲・石見のたたら製鉄と刀工の伝統は、江戸時代を通じて継続し、現代の日本刀鍛冶にも受け継がれている。