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永正3年(1506年)〜永正17年(1520年)
関東・越後・北陸地方(現・茨城県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県等)
勢力
越後長尾氏(守護代)
関東管領・山内上杉氏
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永正の乱(えいしょうのらん)は、永正3年(1506年)から永正17年(1520年)にかけて関東・越後・北陸地方で展開した複雑な権力闘争である。越後の内乱、山内上杉氏の内紛、古河公方家の内紛、越中の神保氏討伐という一連の戦いからなり、越後守護代・長尾為景の謀叛に始まる越後の内乱で関東管領・上杉顕定が戦死したことが、関東の内紛の引き金となった。この乱を通じて、室町幕府の権威が急速に衰退し、大名権力の台頭が加速された。戦国時代への転換を象徴する重要な事件である。
15世紀後半から16世紀初めにかけて、日本全体が政治的混乱の中にあった。京では将軍権力が次第に衰えつつあり、全国の大名たちは独立の度を高めていた。関東では享徳の乱以来、古河公方(足利氏の一族)と関東管領(上杉氏)の対立が続いたが、第2代古河公方・足利政氏の代には関東管領・上杉顕定と協調する体制がとられていた。
古河公方家では、延徳元年(1489年)に初代・足利成氏から家督を譲られた足利政氏が第2代公方となっていたが、永正3年(1506年)、政氏と嫡男・高氏(のちの高基)の対立が表面化した。一方、山内上杉氏の当主として関東管領職にあった上杉顕定は、長享の乱で争った扇谷上杉氏と永正2年(1505年)に和解し、政氏の弟・顕実を養子に迎えていた。
越後国では、守護・上杉房能(顕定の実弟)のもとで長尾氏が守護代を務めていた。永正3年(1506年)9月、守護代・長尾能景が越中で戦死すると、子の長尾為景が家督と守護代職を継いだ。為景は永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して房能を急襲し、関東へ逃れようとした房能を天水越で自害に追い込んだ。
永正6年(1509年)、弟・房能の報復を期した関東管領・上杉顕定が大軍を率いて越後に攻め入ると、劣勢となった為景は佐渡(越中とも)へ逃れた。
しかし翌永正7年(1510年)、為景は寺泊から再び越後に上陸して反攻に転じた。越後の国人の支持を得られず関東へ退こうとした顕定は、6月20日、長森原(現・新潟県南魚沼市)で為景と援軍の高梨政盛に攻められて戦死した(長森原の戦い)。上杉氏の当主が戦場で命を落とすという事態は、関東管領権の急速な衰退を象徴していた。
顕定の死後、山内上杉氏では養子の顕実と憲房が家督を争い、顕実は実兄の古河公方・足利政氏を、憲房は政氏の嫡男・高基を味方につけたため、関東は二分された。高基は永正9年(1512年)に第3代古河公方となり、永正15年(1518年)に政氏が出家して武蔵国久喜の館に隠居したことで、古河公方家の内紛は収まった。越後では為景が上杉定実を守護に擁して実権を握り、さらに父・能景を死に追いやった越中の神保慶宗を、能登守護・畠山義総とともに攻め滅ぼした。
永正の乱の最大の歴史的意義は、室町幕府の権威がこの時期に急速に失墜し、大名権力が台頭し始めたことを象徴している点にある。関東管領は本来、鎌倉公方(のちの古河公方)を補佐して関東を治める要職であったが、永正の乱を通じて山内上杉氏の軍事力は大きく減退した。かわって越後では、守護代の長尾為景が守護・上杉定実を擁して国の実権を握った。
この乱の後、関東の権力構図は一変した。古河公方の権力は急速に衰退し、乱の最中から相模に進出していた伊勢宗瑞(北条早雲)とその後継者たち(後北条氏)が、やがて関東を席巻することになった。北条氏が関東進出を本格化させた背景には、この永正の乱によって古河公方・上杉氏の権威が失墜し、空白が生まれたという事情があった。
永正の乱は、直接には権力継承をめぐる局地的な紛争であるように見えるかもしれない。しかし、この乱を通じて、関東・越後では実力で領国を治める戦国大名への道が開かれていった。刀槍を持つ武士たちは、もはや幕府の権威に従うのではなく、自らの領土を自らの武力で獲得・維持する戦国大名として活動し始めたのである。その意味で、永正の乱は、武家社会の質的な変化を映し出した象徴的な事件なのである。