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永正8年8月23日〜24日(1511年9月25日〜26日)
山城国船岡山(現・京都市北区)
勢力
細川高国・大内義興方(足利義稙方)
細川澄元方(足利義澄方)
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船岡山は京都市北区に位置する標高111.7メートルの小山で、平安京の中軸線である朱雀大路(現在の千本通)の真北にあたる要衝である。応仁元年(1467年)の応仁の乱に際しては、山名教之ら西軍の諸将がこの山に船岡山城を築いて立て籠もり、以後この一帯が「西陣」と呼ばれる由来にもなった。京都盆地を見渡せる戦略上の高地であったことから、船岡山はその後も畿内の争乱のたびに軍勢が布陣する場所となった。
船岡山合戦の淵源は、細川京兆家の家督をめぐる争い「両細川の乱」にさかのぼる。明応2年(1493年)、管領細川政元は将軍足利義材(後の義稙)を追放するクーデター「明応の政変」を起こし、足利義澄を新将軍に擁立して幕政の実権を掌握した。しかし政元には実子がなく、細川澄之・細川澄元・細川高国という3人の養子を迎えていたため、その後継をめぐって養子同士が対立する火種を抱えることとなった。このうち高国は細川氏一門・野州家の細川政春の子として生まれ、幼少期に政元の養子となった人物であり、澄之・澄元とは異なる家格の出自を持っていた。
永正4年(1507年)6月23日、澄之派によって政元が暗殺される「永正の錯乱」が発生する。近江に逃れていた細川澄元はやがて勢力を盛り返して京都を奪還し、澄之を排して家督を確保した。この一連の内紛は、細川京兆家という室町幕府の屋台骨を支える最大の実力者の家督が、養子3人の間でめまぐるしく争奪される事態を招き、以後十数年にわたって畿内の政局を不安定化させる根本的な要因となった。
一方、明応の政変で追放されていた前将軍足利義材(義稙)は、周防の有力大名・大内義興を頼って中国地方に亡命していた。義興は西国随一の実力者として知られ、日明貿易の実権を握る大内氏の当主として、亡命中の前将軍を庇護する立場にあった。永正5年(1508年)、義稙は義興を伴って上洛を開始し、これに細川高国が呼応して挙兵すると、義澄・澄元方は京都を維持しきれず敗走した。義稙は将軍職に復職し、高国が管領として幕政を主導する体制が成立した。義稙は明応の政変で一度将軍職を追われ、この永正5年の復職を経て、後に大永元年(1521年)に高国との対立から再び京都を追われることになる、室町幕府の歴代将軍の中でも異例の経歴をたどった人物である。
しかし澄元方は抵抗をやめず、永正8年(1511年)、劣勢の挽回を図って反撃に転じる。澄元方は摂津国で戦われた「深井の合戦」「芦屋河原の合戦」で相次いで勝利を収め、一時は京都を奪還するに至った。義稙・高国は近江へと逃れ、京都の情勢は再び流動化した。この間、義稙・高国方は摂津・河内方面での劣勢を強いられ、京都近郊は澄元方の実効支配下に置かれる状況が一定期間続いていたとみられる。
京都を追われた高国・義興方は、体制を立て直して反撃の機会をうかがった。この間、澄元方に与していた近江の六角高頼が、突如として義稙方へ寝返るという事態が生じる。六角氏は近江における最大級の軍事力を有しており、その離反は澄元方の戦略に大きな打撃を与えるものであった。さらに、前将軍として澄元方に擁立されていた足利義澄が、失意のうちに病死するという事態も重なり、澄元方は戦局の主導権を失っていった。こうした状況の変化を受けて、高国・義興は京都奪還に向けた大攻勢を決意し、両軍は山城国船岡山(現・京都市北区)において雌雄を決することとなった。
永正8年8月23日から24日(1511年9月25日〜26日)にかけて、両軍は船岡山で激突した。澄元方は細川政賢を総大将とし、細川元常・山中為俊らを加えて船岡山に布陣し、防戦の構えをとった。政賢・元常・山中為俊はいずれも足利義澄・細川澄元方に属する幕府直臣的な立場の武将であり、澄元方にとって政賢は切り札とも呼ぶべき主将であった。その兵力は政賢の2千、元常の1千、山中為俊の3千を合わせておよそ6千程度であったのに対し、高国・義興方は2万を超える大軍を擁しており、兵力差は歴然としていた。
大内義興の軍が船岡山への夜襲を敢行すると、劣勢の澄元方はこれに支えきれず総崩れとなった。総大将の細川政賢は乱戦の中で討ち死にし、澄元方の主だった武将のほとんどがこの戦いで命を落とした。周防・長門から遠征してきた大内軍は、本国から離れた山城国での戦いにもかかわらず、夜襲という戦術を効果的に用いて数の上での優位を最大限に活かした。
船岡山での大敗により、細川澄元は本拠の阿波国(現・徳島県)へと敗走した。これにより京都は再び足利義稙・細川高国の手に帰し、義稙の将軍職と高国の管領としての地位は当面のあいだ安定することとなった。両軍の兵力差は歴然としており(高国・義興方2万余に対し澄元方約6千)、船岡山合戦は両細川の乱の中でも屈指の大規模な会戦として記録されている。
船岡山合戦後も細川澄元は抵抗を継続した。永正17年(1520年)には一時的に京都を回復するも、腹心の三好之長が等持院の戦いで敗死し、澄元自身もその混乱の中で同年のうちに没した。一方、合戦で高国方を助けた大内義興は、その後も一定期間在京して幕政を支えたが、出雲の尼子氏や安芸武田氏の不穏な動きを受けて永正15年(1518年)に本国の周防へ帰国した。義興は以後二度と上洛することなく、享禄2年(1529年)に病没している。船岡山合戦で高国方の勝利に決定的な役割を果たした大内軍の帰国は、以後の京都における細川高国の立場を、大内氏という強力な後ろ盾を欠いたまま維持しなければならないものへと変えていくこととなった。
船岡山合戦の勝利によって細川京兆家の実権を固めた高国は、以後10年近くにわたって管領として幕政を主導する立場を保ったが、その後の政局は必ずしも安泰ではなかった。高国はやがて将軍足利義稙と対立し、大永元年(1521年)には義稙を追放して足利義晴を新将軍に擁立する。しかし今度は澄元の遺児・細川晴元との対立が先鋭化し、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで高国は敗北を喫し、最終的に享禄4年(1531年)の大物崩れの敗北を経て自害に追い込まれた。船岡山合戦の勝者であった高国が、その20年後には澄元の血統に敗れて命を落とすという結末は、両細川の乱の抗争がいかに長期かつ苛烈なものであったかを如実に示している。
船岡山合戦は、細川京兆家の家督と室町幕府の主導権をめぐって半世紀近くにわたって断続的に続いた両細川の乱の中でも、高国・義興方が最も明確な勝利を収めた一戦として位置づけられている。しかしこの勝利は両細川の乱そのものの終結を意味するものではなく、勝者であった高国自身もまた、澄元の血統との抗争の末に非業の死を遂げることになったという点で、戦国初期の細川氏をめぐる権力闘争の複雑さと苛烈さを象徴する戦いであったといえる。現在、合戦の舞台となった船岡山の山頂には建勲神社が鎮座し、山全体が船岡山公園として整備されており、応仁の乱以来幾度も畿内の争乱の舞台となったこの地の歴史を今に伝えている。