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1567-09-01
美濃国稲葉山(現・岐阜県岐阜市金華山)
勢力
織田軍
斎藤軍
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永禄10年(1567年)8月、尾張国(現・愛知県)を本拠とする織田信長は、長年にわたって攻略を目指してきた美濃国(現・岐阜県南部)の要衝・稲葉山城をついに手中に収めた。この「稲葉山城の戦い」は、戦国時代の流れを大きく変えた決定的な合戦の一つであり、信長の天下統一事業における最初の大きな画期として位置づけられる。
稲葉山城は金華山(海抜329m)の山頂に築かれた山城で、その天然の要害と長良川・木曽川を望む地の利から「難攻不落の城」として知られていた。斎藤道三(まむしの道三)がかつてこの城を根拠地として美濃国を支配し、その子・義龍、孫・龍興へと引き継がれてきた。
信長と美濃国の因縁は深かった。信長の正室・帰蝶(濃姫)は斎藤道三の娘であり、信長は道三の婿にあたる。道三は長男・義龍に弑され(弘治2年・1556年)、臨終の床で美濃国を信長に譲るとの遺言を残したとも伝えられる。この遺言の真偽はともかく、信長にとって美濃攻略は義理からも戦略からも不可欠な目標であった。
永禄2年(1559年)頃から信長は美濃への攻勢を強め、斎藤義龍(龍興の父)と数回の合戦を繰り広げた。しかし義龍は剛勇にして智謀の人物であり、信長はこの時代には美濃攻略に苦戦し続けた。永禄4年(1561年)に義龍が35歳の若さで急死すると、跡を継いだのが嫡男・斎藤龍興(当時14〜15歳)であった。龍興は祖父・道三や父・義龍の器量に及ばず、家中では内紛が絶えなかった。これが信長に好機をもたらした。
稲葉山城攻略の前哨戦として重要な事件がある。永禄7年(1564年)、美濃の若き軍師・竹中半兵衛(重治)が弟・久作や仲間の豪傑16名ほどとともに稲葉山城を占拠したのである。龍興の側近による弟・久作への理不尽な扱いに義憤を感じた半兵衛は、わずか数十人の手勢で難攻不落の稲葉山城を奇襲・制圧するという離れ業を成し遂げた。半兵衛はその後龍興に城を返上して山中に引き籠ったが、この事件は稲葉山城が少数の精鋭による奇襲で攻略可能であることを示した。後に半兵衛は木下藤吉郎(秀吉)の熱心な勧誘を受けて織田方に参加し、秀吉の軍師として活躍することになる。
永禄10年(1567年)、信長は美濃攻略の総仕上げに取り掛かった。稲葉山城攻略において決定的な役割を果たしたのが、当時まだ若年の武将であった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉・当時30〜31歳)である。
藤吉郎は密かに城内に内応者を作り、城の搦手(からめて・裏門)から少数の精鋭を引き連れて夜陰に乗じて侵入するという奇略を敢行した。この奇襲が功を奏し、城内の守備は混乱した。信長の本隊が正面から攻撃を仕掛ける一方、藤吉郎らが内部から攪乱したことで、斎藤龍興は抵抗の術を失い、船で長良川を下って伊勢国へと逃走した。織田軍は稲葉山城を落とし、美濃国全域が信長の支配下に入った。
斎藤龍興はその後、伊勢・近江を転々としながら信長への抵抗を続け、天正元年(1573年)の刀禰坂の戦いで朝倉方として戦い、討死したとされる。
稲葉山城を奪取した信長は直ちに城と城下町の整備に着手した。特筆すべきは城の改名である。信長は稲葉山城を「岐阜城」と改め、城下の地名も「岐阜」と改称した。「岐」の字は中国の岐山(周王朝発祥の地)から取り、「阜」は阜陵(豊かな丘)を意味し、周の文王が岐山から天下を統一したという故事に倣ったとされる。信長の壮大な天下統一の志が、この地名に込められていた。
さらに信長はこの時期から「天下布武」(天下に武力を布く・つまり武力によって天下を統一する)の朱印を使い始めた。このスローガンは信長の天下統一への明確な意志表示であり、戦国時代の新たな価値観——礼よりも実力で天下を制する——の宣言でもあった。岐阜城はこの「天下布武」の拠点となり、信長は各地の武将や大名、さらには公家・朝廷との交渉においても岐阜城を政治的舞台として活用した。
稲葉山城の戦いと刀剣文化の関係において、最も重要なのは美濃国・関(現・岐阜県関市)が古来より「刀都」として名高い日本最大の刀剣産地のひとつであるという事実である。関鍛冶の歴史は南北朝時代(14世紀)に遡り、正宗の高弟・金重を始祖とする系譜が伝わる。室町時代には関鍛冶は全国的な名声を博し、その刀は「三枚甲を切り通す」と称される切れ味で知られた。
戦国時代の美濃は、刀剣の一大生産地として織田・斎藤両軍に刀剣を供給し続けた。稲葉山城を巡る争いは、美濃国の経済・政治的支配権の争奪であると同時に、関鍛冶が生み出す精良な武器の供給源の確保という意味も持っていた。信長が美濃を掌握したことで、関鍛冶の技術と生産力は織田政権の軍事力を支える基盤の一部となった。
信長自身が関鍛冶の刀を愛用したとの伝承もあり、岐阜城時代の信長は各地の名工に刀剣を発注・収集した。また、信長の武将たちが美濃制覇の恩賞として名刀を賜ったという記録も残っており、関鍛冶の名刀が戦功の象徴として贈られる慣行が定着していた。
稲葉山城の陥落は、単なる一城一国の攻略にとどまらず、戦国時代全体の文脈で見ても特別な意味を持つ歴史的転換点であった。尾張一国の大名から出発した信長が、美濃という広大で豊かな国を手に入れたことで、以後の天下統一事業が本格化した。
翌永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛(京都入り)を果たし、京都・畿内の支配を掌握する。永禄13年(元亀元年・1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦い(朝倉氏滅亡)・浅井氏滅亡と、信長の攻勢は続いた。これらすべての出発点となったのが、永禄10年8月の稲葉山城攻略であった。
稲葉山城——岐阜城——は現在も岐阜市のシンボルとして金華山頂に復元天守閣がそびえ立ち、信長天下布武の夢を今に伝えている。毎年秋には信長公居館跡において信長まつりが開催され、日本全国から多くの歴史ファンが訪れる。岐阜城の足下に広がる信長の城下町跡は、現在の岐阜市街地の原型となっており、この地が戦国時代のターニングポイントであったことを今も物語っている。