
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
1570-08-20
今山(現・佐賀県佐賀市大和町付近)
勢力
龍造寺・鍋島方
大友軍
約3分で読めます
元亀元年(1570年)8月に行われた「今山の戦い」は、九州の戦国史における最大の逆転劇の一つとして知られている。豊後の大大名・大友義鎮(宗麟)の圧倒的な大軍に対し、肥前の中堅大名・龍造寺隆信の重臣・鍋島信生が機略縦横の夜討ちによってこれを撃破し、九州における権力地図を塗り替えた戦いである。
龍造寺隆信(1529〜1584年)は、肥前国(現・佐賀県・長崎県北部)の国人領主として15世紀から続く龍造寺氏に生まれた。若い頃から謀略・武略に長け、少弐氏・馬渡氏などの在地勢力を次々と吸収しながら肥前の実力者へと成長した。
龍造寺氏の台頭を警戒したのが、豊後(現・大分県)を本拠とする大友義鎮(法号・宗麟、1530〜1587年)であった。大友宗麟はキリシタン大名としても知られ、南蛮貿易で得た鉄砲・大砲を活用した九州最大の戦国大名である。永禄年間(1558〜1570年)を通じて宗麟は龍造寺氏への圧力を強め、ついに大軍を肥前に差し向けることを決意した。
永禄12年(1569年)秋から元亀元年(1570年)にかけて、大友宗麟は龍造寺隆信の本拠・佐嘉城(現・佐賀城、佐賀市)を大軍で包囲した。大友軍の規模は20,000〜60,000(諸説あり)ともいわれ、龍造寺方は城に籠もりながら援軍を待つ状況に追い込まれた。長期化する籠城は城内の士気を蝕み、隆信は絶体絶命の危機に立たされた。
この危機を打開したのが、龍造寺家の重臣・鍋島信生(後に鍋島直茂、1538〜1618年)であった。信生は敵の大軍を正面から迎え撃つことの無謀を見抜き、大友軍の本陣が今山(現・佐賀市大和町付近)の丘陵地に布陣しているという情報を得て、夜討ちによる首脳部への奇襲を立案した。
信生は選り抜いた精鋭数百人(一説には800〜2,500人)を率いて、元亀元年(1570年)8月20日深夜(一説には翌朝早暁)、今山の大友軍本陣へ奇襲を仕掛けた。大友軍は数万の大軍でありながら夜間の奇襲に対する備えが薄く、本陣は瞬く間に混乱に陥った。この夜襲で大友側の総大将・大友親貞(大友宗麟の弟)が討ち取られた。総大将の討ち死によって大友軍は戦意を喪失し、包囲を解いて撤退を余儀なくされた。
なお龍造寺隆信自身は籠城中であり、今山奇襲を直接指揮したのは鍋島信生であった。この功績によって信生は龍造寺家における地位をさらに高め、後の鍋島藩成立への伏線となった。
今山の戦いにおける夜討ちは、戦国期の奇襲戦術の典型例として知られる。夜間の白刃戦において、長槍・鉄砲よりも機動性の高い打刀・脇差の有用性が際立つ場面であった。龍造寺・鍋島方の兵は、篝火のない暗闇の中での接近戦を想定した装備と戦術を採用したとされる。
鍋島直茂(信生)は後年、この夜襲で自ら数名を斬り捨てたと伝えられており、佐賀藩に伝わる鍋島家の刀剣には今山の戦い由来の伝承を持つものも存在する。九州の鍛冶として知られる肥前刀(肥前国忠吉派)は、江戸時代初期に鍋島藩の支援を受けて発展した。肥前忠吉は慶長年間(1596〜1615年)に鍋島直茂の命を受けて開祖となったとされており、今山の戦いで確立された鍋島家の武家的権威が肥前刀剣文化の直接的な基盤となった。
今山の戦いの勝利によって、龍造寺隆信は肥前における大友氏の圧力を跳ね返し、その後の肥前制覇への足掛かりを確立した。隆信はその後急速に勢力を拡大し、天正10年代には「肥前の熊」と称される九州の一大勢力となった。九州の覇権をめぐる大友・島津・龍造寺の三つ巴の争いは、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで大きく動き、隆信は島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。
龍造寺家はその後、鍋島直茂が実権を握り、江戸時代には正式に鍋島藩として肥前を支配した。今山の戦いの真の受益者は、奇襲を立案・実行した鍋島直茂であったとも言える。今山の戦いは、現代の佐賀市でも地元の歴史として語り継がれており、今山八幡宮(佐賀市大和町)には戦いゆかりの史跡が残されている。