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1570-09-16
近江国志賀郡(現・滋賀県大津市北部)
勢力
織田軍
浅井・朝倉連合軍+延暦寺
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志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月にかけて、近江国志賀(現・滋賀県大津市北部)で行われた長期対峙戦である。浅井長政・朝倉義景の連合軍と比叡山延暦寺の僧兵が連携し、南北から信長を挟撃する形となったこの戦いは、信長が生涯で最も苦しんだ戦いのひとつとして知られる。最終的に信長は朝廷・足利将軍家の仲介による和議を受け入れざるを得なかったが、この屈辱が翌元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへの直接的な導火線となった。
元亀元年4月、信長は友好関係にあった浅井長政が旧盟を理由に離反するとは夢にも思わず、朝倉義景討伐のために北近江に侵攻した(金ヶ崎の戦い)。浅井長政が突如として信長に背いた報は陣中に電撃のように走り、信長は命からがら撤退した(いわゆる「金ヶ崎の退き口」)。続く6月の姉川の戦いで信長・家康連合軍は浅井・朝倉連合を破ったものの、浅井・朝倉の本拠地を抑えるには至らなかった。
9月に入ると、浅井・朝倉の連合軍は琵琶湖西岸を南下し、志賀郡(現・大津市北部)に進出。織田方の宇佐山城を守る森可成が9月20日の戦闘で戦死するなど、信長は重大な損害を受けた。さらに比叡山延暦寺が浅井・朝倉方に加担し、山上からの監視・支援を行ったことで、信長は比叡山の東西を挟まれた不利な態勢を強いられた。
志賀の陣が展開した琵琶湖西岸は、比叡山の急峻な山腹と湖水に挟まれた狭隘な地形であり、大軍の展開に著しく不向きだった。この地形的制約は、遠距離の弓矢・鉄砲よりも、接近戦における刀・槍の働きが決定的になる状況を生み出した。
各地から結集した足軽や武将たちが帯びていた刀には、当然ながら産地の多様性があった。信長方には美濃・尾張の刀工が作った関物・尾張物が多く、浅井・朝倉側には越前・近江の刀が使用されていたと考えられる。志賀の陣は最終的に大規模な白兵戦なしに和議で終結したが、3ヶ月にわたる対峙の中で両軍の刀剣は常に抜刀の緊張状態にあり、斥候や小競り合いが連日繰り広げられていた。
信長は志賀の陣において前後から挟まれ、さらに本願寺の蜂起(元亀一向一揆)まで重なって多方面対応を迫られた。11月になっても膠着状態が続く中、信長は朝廷と将軍・足利義昭に和議の仲介を要請するという、信長にとって異例の「妥協」に踏み切った。
12月13日、朝廷と義昭の斡旋により和議が成立。信長は浅井・朝倉に対して一定の条件を認め、両軍は撤退した。信長が和議に応じたのは、冬の山岳地帯での長期消耗を避けるためとも、本願寺・武田への対処を優先するためとも説明されるが、いずれにせよ信長のキャリアにおいて「自ら妥協を求めた」数少ない例のひとつであった。
志賀の陣で信長が延暦寺の僧侶や衆徒が浅井・朝倉方を匿い、宗教的権威を政治的に利用したことに対する憤慨は深かった。和議成立後、信長は機を待ち続け、翌元亀2年(1571年)9月12日、突如として比叡山延暦寺に大軍を送り込み、根本中堂をはじめとする堂塔伽藍を焼き払い、僧侶・衆徒・信徒を問わず大量に殺害した(比叡山焼き討ち)。
この「前代未聞の暴挙」(当時の記録より)の直接的な原因は、志賀の陣における延暦寺の政治的立場にあったと歴史家の多くが指摘している。信長にとって延暦寺は「宗教の名を借りた政治権力」であり、その武装勢力が刀・薙刀・石弓で信長の軍勢を苦しめた記憶は鮮明であった。
延暦寺の焼き討ちでは、寺院内に保管されていた多数の武器・刀剣類も焼失した。延暦寺の僧兵(堂衆)は長刀(なぎなた)を主要武器とし、刀・槍を帯び、甲冑を着込む「武装宗教者」として室町時代を通じて政治に大きな影響力を持っていた。志賀の陣はその延暦寺の武装力が信長を最後に苦しめた戦いとして、僧兵武装史の末期を象徴している。
信長の比叡山掌握後、従来の「寺社武装勢力」は大きく弱体化し、刀剣の保有主体が武家へとより明確に収斂していった。志賀の陣・比叡山焼き討ちの一連の出来事は、戦国末期における刀剣の「担い手」が誰であるかを再定義した歴史的事件として位置づけることができる。