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永禄7年(1564年)2月6日
美濃国稲葉山城(現・岐阜県岐阜市金華山)
勢力
竹中半兵衛方
斎藤龍興方
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永禄7年(1564年)2月6日、美濃国の若き武将・竹中重治(通称・半兵衛)は、わずか16人(17人とも)の手勢を率いて、当時の美濃国主・斎藤龍興の居城である稲葉山城(現・岐阜県岐阜市金華山)を奇襲・占拠した。難攻不落として知られ、織田信長でさえ攻略に苦しんでいた堅城を、10代の俊才が少数の手勢で手中にしたこの事件は、戦国史に残る前代未聞の奇策として語り継がれている。
竹中半兵衛(天文13年・1544年 – 天正7年・1579年)は、美濃斎藤氏の家臣・竹中重元(大御堂城主、のちに不破郡の菩提山城主)の子として生まれた。若年から武芸と兵法に優れ、とりわけ城攻め・守備戦略における天才的な洞察力で名を馳せた。後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力・参謀として活躍し、黒田官兵衛とともに「両兵衛」と称された。その生涯を36歳で閉じるまで、半兵衛は謀略と人心掌握の双方において比類ない才能を発揮し続けた。
斎藤道三・義龍の後を受けて永禄4年(1561年)に家督を継いだ斎藤龍興は、まだ数え14歳の若君であった。道三・義龍父子の時代に礎が築かれた美濃の覇権は、龍興の治世になると急速に揺らぎ始めた。龍興は政務を怠り、酒色にふけることが多く、重臣らの諫言も聞き入れなかったと伝えられる。一方で織田信長は尾張を統一し、美濃への侵攻を繰り返しており、斎藤家の内部崩壊が差し迫った状況になっていた。
竹中半兵衛は、こうした龍興の暗愚な振る舞いに強い義憤を感じていた。諸将からの諌言が悉く無視される中、半兵衛はより劇的な手段で主君を目覚めさせようと決意したという。
乗っ取りが成功した最大の要因は、半兵衛の弟・竹中重矩が稲葉山城内に人質として置かれていたことだった。半兵衛は兄弟の関係を利用し、弟を見舞う名目で小人数の手勢を率いて城内に踏み込んだ。警戒の薄い城内で、半兵衛一行は要所を次々に掌握。城の守備を担っていた兵士たちは突然の事態に混乱し、半兵衛は龍興の寵臣・斎藤飛騨守ら6名を討ち取り、舅・安藤守就の軍勢とともに難攻不落の稲葉山城を占領した。
城主・斎藤龍興は城から逃れ去った。占拠は7月末頃まで続いたが、8月には城は龍興の手に戻り、半兵衛は隠遁した。龍興を諌めたうえで自ら城を返したとも伝わるが、龍興を支援する勢力の攻撃を受けて城を放棄したとする見方もある。
この事件が後世の人々を惹きつける理由のひとつは、半兵衛の動機の純粋さにある。彼は城を奪って私腹を肥やすのでなく、また他の勢力に売り渡すこともなく、目的を果たした後は自ら城を手放したと伝えられる。主君を諌め、美濃の危機を訴えるという一点のみに向けられた行為は、武士の義を体現するものとして語り継がれてきた。
当時の美濃の刀剣事情との関係で言えば、稲葉山城周辺には刀剣産地として知られる関(せき)の刀工集団が活動しており、半兵衛の乗っ取り事件と同時代に「関物」と呼ばれる美濃の刀が最も活発に生産されていた時期にあたる。
稲葉山城を手放した後、半兵衛は隠遁し、斎藤家の没落後は浅井長政の客分を経て織田方に転じた。元亀元年(1570年)には木下秀吉(後の豊臣秀吉)が信長に願い出て竹中氏を与力に加えたと『豊鑑』は記しており、以後、半兵衛は秀吉の与力として働くことになった。以後、半兵衛は播磨攻略・三木城攻囲など秀吉の西国征服において参謀として活躍した。
半兵衛の名は今日でも「軍師の代名詞」として知られ、戦国時代を扱う小説・映画・ゲームに頻繁に登場する。その起点となったのが、わずか16人で天下の名城を制した永禄7年の奇策であった。岐阜城(旧稲葉山城)は現在も金華山に屹立し、半兵衛の伝説を今に伝える。