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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
28件のイベント
文久3年9月16日(一説に18日)深夜(1863年10月28日、一説に30日)
文久3年(1863年)9月、新選組の主導権をめぐり、近藤勇・土方歳三一派が水戸派の筆頭局長格・芹沢鴨を京都・壬生の八木邸で粛清した事件。以後、近藤を局長とする指揮体制が確立し、新選組は組織的な統制を強めていった。
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文久3年8月18日(1863年10月1日)
文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩・会津藩が連携して長州藩を中心とする尊攘過激派を京都から追放したクーデター。「文久の政変」とも呼ばれ、三条実美ら七卿が長州に落ち延びた「七卿落ち」を引き起こした。幕末政局を大きく転換させた政変として、以後の禁門の変・長州征討へとつながる。
文久3年4月13日(1863年5月30日)
文久3年4月13日(1863年5月30日)、幕末の尊王攘夷論者・清河八郎が江戸麻布一ノ橋付近で幕府刺客・佐々木只三郎らに待ち伏せされ暗殺された。享年34。浪士組を率いて上洛し京都で尊王攘夷宣言を行った直後の出来事であり、この事件が新選組誕生の間接的背景となった。幕末の政治的暗殺と日本刀の実戦使用を象徴する事件。
文久3年10月12日(1863年11月23日)
文久3年(1863年)10月、但馬国生野で公卿沢宣嘉を擁した平野国臣ら尊王攘夷派志士が挙兵した事件。大和の天誅組に呼応したが、諸藩討伐軍の出動と内部分裂によりわずか2日で崩壊した幕末最初期の草莽蜂起の一つ。
文久2年8月21日(1862年9月14日)
文久2年(1862年)8月21日、薩摩藩主・島津久光の行列を横切ったイギリス人商人リチャードソンが薩摩藩士に斬殺された事件。日本刀による外国人殺傷の代表的事例として知られ、翌年の薩英戦争の直接の原因となった。攘夷の刃が国際問題を引き起こした幕末最大の外交危機のひとつ。
文久2年1月15日(1862年2月13日)
文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外において、水戸浪士ら6名が老中・安藤信正を襲撃した事件。信正は軽傷で生き延びたものの、攘夷派の高まりと幕権の動揺を天下に示した政変となった。和宮降嫁による公武合体政策への反発が直接の動機とされる。
慶応4年8月21日(1868年10月6日)
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、会津・二本松の藩境にある母成峠で、大鳥圭介率いる旧幕府・会津方守備隊約800と、板垣退助・伊地知正治率いる新政府軍約7000が激突。半日で守備隊は敗走し、新政府軍は一気に会津若松城下へと迫った。会津戦争の帰趨を決定づけた戦いとされる。
慶応4年7月29日(1868年9月15日)
慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に加わった二本松藩を新政府軍が攻めた戦い。兵力不足を補うため12歳から17歳前後の少年たちが「二本松少年隊」として実戦に投入され、多くが戦死したことで知られる。
慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日)
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の口火を切った薩摩・長州連合軍と旧幕府軍の激突。近代兵器を擁する新政府軍が圧勝し、徳川慶喜は江戸へ敗走。武士の時代の終わりを告げる戦いとなり、刀剣文化においても「刀から銃へ」の転換点として記憶される。
慶応3年11月18日(1867年12月13日)
慶応3年(1867年)11月、新選組から分離し倒幕方面の活動を展開していた伊東甲子太郎ら御陵衛士が、京都・油小路で新選組に謀殺された事件。御陵衛士は事実上壊滅し、新選組にとって最後の大規模な内部粛清となった。
慶応2年6月7日〜8月下旬(1866年7月)
慶応2年(1866年)、幕府が長州藩征討のため諸藩に出兵を命じた軍事作戦。しかし薩長同盟(坂本龍馬仲介)後の長州藩は高杉晋作率いる奇兵隊で幕府軍を各戦線で撃退。幕府の実力の限界を天下に示し、翌年の大政奉還・明治維新への決定的な転換点となった。
慶応2年(1866年)1月21日
慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で薩摩藩と長州藩が結んだ軍事密約。倒幕・明治維新の実現を可能にした日本史上最も影響力の大きな政治同盟の一つ。
安政5年〜6年(1858〜1859年)
安政5〜6年(1858〜1859年)、大老・井伊直弼が将軍継嗣問題・日米修好通商条約をめぐって反対派を大弾圧した政治事件。吉田松陰・橋本左内ら100名超が処罰され、幕末最大の政治的粛清として知られる。この弾圧が翌年の桜田門外の変を直接招いた。
元治元年7月19日(1864年8月20日)
元治元年(1864年)7月、京都御所の禁門(蛤御門)で長州藩士が薩摩・会津連合軍と激突した幕末最大の市街戦。「元治の大火(どんどん焼け)」で京都の大半が焼失し、長州藩は「朝敵」に指定された。新選組が鎮圧に参戦し、幕末の政治対立が武力衝突に至った転換点。
元治元年12月15日(1865年1月12日)深夜に挙兵、元治2年(1865年)1〜2月の絵堂・太田・赤村での戦闘を経て同年2月14日に萩城を制圧
元治元年12月15日(1865年1月12日)深夜、高杉晋作がわずか84名を率いて長府・功山寺で挙兵し、幕府に恭順する長州藩の俗論派政権打倒に立ち上がった事件。諸隊の呼応を得て絵堂・太田・萩城と連勝を重ね、翌年2月には藩論を倒幕路線へと転換させた。
元治元年(1864年)7月〜11月
元治元年(1864年)8月、禁門の変で朝廷への発砲を犯した長州藩を討伐するため徳川幕府が組織した大規模な征討。西郷隆盛を調停役として長州藩が謝罪・恭順し、無血終結した。
万延元年3月3日(1860年3月24日)
万延元年(1860年)3月3日、大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名に暗殺された幕末最大の政治テロ。「安政の大獄」への報復として決行されたこの事件は幕府権威の崩壊を象徴し、「尊王攘夷」運動を激化させた。
万延元年(1860年)頃、近藤勇が虎徹入手を志したとされる時期を起点とする通説
新選組局長・近藤勇は「最上大業物」に格付けされる名工・長曽祢虎徹の刀を愛刀としたと伝わるが、当時すでに虎徹の真作は希少で偽銘が横行しており、近藤の刀も源清麿門系の作に虎徹銘を偽刻したものである可能性が高いというのが現在の通説である。
1868年8〜9月(慶応4年8〜9月)
慶応4年(1868年)8〜9月、戊辰戦争の一環として行われた会津藩と新政府軍の決戦。鶴ヶ城(会津若松城)を舞台に繰り広げられた激戦は、白虎隊の悲劇とともに「武士の最期」を象徴する戦いとして後世に伝えられた。
1868年7月4日(慶応4年5月15日)
慶応4年(1868年)5月、上野・東叡山寛永寺を拠点とした彰義隊が新政府軍と激突した戊辰戦争最初の江戸市街戦。わずか半日で彰義隊は壊滅し、旧幕府の抵抗勢力は東北へと退いた。
1868年5月3日(慶応4年4月11日)
慶応4年4月11日(1868年5月3日)、新政府軍の江戸総攻撃を前に、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城が無血開城された。百万都市・江戸の市街地戦を回避した歴史的決断は、近代日本最大の「流血なき革命」として世界史にも類を見ない政権交代の一幕となった。
1868年5〜9月(慶応4年5〜9月)
慶応4年(1868年)5〜9月、越後国長岡藩が奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦った戊辰戦争。家老・河井継之助がガトリング砲を駆使して新政府軍を苦しめ、「最後の武士」とも称される壮絶な戦いを展開した。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇の名のもとに発せられた王政復古の大号令。摂関・幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職からなる新政府の樹立を宣言した。同日夜の小御所会議で徳川慶喜の辞官・納地が決定され、江戸幕府の実質的な終焉となった。
1867年11月9日(慶応3年10月14日)
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した幕末最大の政治的転換。265年に及ぶ江戸幕府の統治に終止符を打ち、維新政府への権力移行を可能にした日本史上の画期的事件。