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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
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永禄年間(1558〜1570年)頃
戦国時代中期の永禄年間(1558〜1570年)、上泉伊勢守信綱(1508年頃生)が陰流を発展させて新陰流を創始した。信綱は革袋に入れた割竹(袋竹刀)を考案して稽古に革命をもたらし、「殺人刀」ではなく相手を制する「活人剣」の思想を体系化した。永禄7年(1564年)には足利義輝の前で天覧演武を行い、その後、柳生宗厳に奥義を伝えて柳生新陰流の基礎を築いた。
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永禄8年〜永禄9年(1565年〜1566年)
永禄8年(1565年)から翌年にかけて、毛利元就が出雲国の尼子氏の居城・月山富田城を包囲・攻略した合戦。難攻不落として名高い月山富田城を1年余りに及ぶ兵糧攻めで陥落させた元就は、中国地方の覇権を確立した。尼子氏は滅亡し、出雲は毛利領となった。
永禄7年(1564年)正月3日
永禄7年(1564年)正月、北条氏康・氏政父子が率いる後北条軍が里見義弘の軍を国府台(現・千葉県市川市)で大破した合戦。里見氏の上総侵攻を阻止し、北条氏の関東支配を確固たるものとした戦いであり、戦国東国史における重要な節目である。
永禄3年〜元亀元年(1560年〜1570年、複数次にわたる攻防)
永禄3年(1560年)から元亀元年(1570年)にかけて、越後の上杉謙信が下野国唐沢山城(現・栃木県佐野市)の佐野昌綱に対して繰り返した一連の攻防。関東七名城の一つに数えられる堅城を前に謙信はついに完全制圧できず、昌綱は上杉・後北条の二大勢力の間で降伏と離反を繰り返しながら佐野氏の存続を果たした。
永禄12年10月(1569年)
永禄12年(1569年)10月、武田信玄の甲相駿三国同盟破棄後の相模侵攻において、小田原包囲から撤退する武田軍を追撃した北条軍との激突。三増峠(現・神奈川県愛甲郡愛川町)において武田軍が北条追撃隊を破り、甲斐への帰還に成功した合戦。山県昌景が活躍した赤備えの騎馬隊による突撃が名高い。
永禄11年9月12日(1568年)
永禄11年(1568年)9月、上洛を目指す織田信長の大軍が南近江の六角氏を攻撃。支城・箕作城が一夜で陥落すると、六角義賢・義治父子は本城・観音寺城を放棄して逃走した。日本最大級の中世山城が無血で開城した象徴的な事件。
永禄10年4月18日〜10月11日(1567年)
永禄10年(1567年)4月から10月にかけて、松永久秀・三好義継連合軍と三好三人衆・筒井順慶連合軍が奈良で激突。10月10日夜の松永軍の夜襲を機に出火し、東大寺大仏殿と大仏の仏頭が焼失する未曽有の惨事となった。
永正3年(1506年)〜永正18年(1521年)
永正年間(1506-1521年)、越後の長尾為景による反乱から派生した関東・越後・北陸を舞台とした大規模な内乱。古河公方家と関東管領上杉家の対立が深刻化し、やがて越後の長尾為景が介入して複雑な勢力争いが展開された。長森原の戦いで上杉顕定が戦死し、関東管領権の弱体化が進行。やがて後北条氏が関東進出の機会を掴み、戦国大名化への道を開いた。室町幕府の衰退と大名権力の飛躍的な成長を象徴する事件である。
永正14年(1517年)10月22日
永正14年(1517年)、安芸国で起こった有田中井手の戦いは、若き毛利元就の初陣として名高い。尼子氏の支援を受けた安芸の旧守護・武田元繁が吉川氏の有田城を攻めたのに対し、毛利・吉川連合軍が迎え撃った合戦で、寡兵の連合軍が武田方の勇将・熊谷元直を討ち取り、さらに大将・武田元繁をも流れ矢で斃して大勝した。「西の桶狭間」とも称される。
明応2年(1493年)〜明応7年(1498年)
明応2年(1493年)から明応7年(1498年)にかけて、後北条氏の初代当主・北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆国を統一した過程。堀越御所を攻撃して足利茶々丸を追放し、5年かけて深根城を攻略、伊豆一国を平定した。これは室町幕府の権威が及ばない地方での独立的な領土統一であり、戦国大名の出現を象徴する事件である。早雲による伊豆平定は後北条氏の関東制覇への第一歩となり、やがて関東を席巻する戦国大名体制の成立を促した。
明応2年(1493年)
明応2年(1493年)、管領・細川政元が足利義材を廃して傀儡将軍を擁立したクーデター。これにより室町幕府の権威は決定的に失墜し、戦国時代の幕を実質的に開いた政変として歴史に刻まれる。
文禄元年4月〜文禄2年5月(1592年5月〜1593年6月)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸征服を目指して朝鮮半島に15万の大軍を送り込んだ「文禄・慶長の役」の第一次出兵。加藤清正・小西行長らが電撃的に漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍・明の援軍によって反撃され、1593年に停戦。日本刀が朝鮮・中国の兵器と初めて大規模に激突した歴史的戦争。
慶長5年9月7〜15日(1600年10月13〜21日)
慶長5年9月7〜15日(1600年)、近江国大津城(現・滋賀県大津市)において、京極高次が立花宗茂ら西軍の大軍に対して約9日間籠城した戦い。高次の果敢な抵抗は関ヶ原本戦当日まで立花宗茂ら西軍精鋭1万5千を大津に釘付けにし続け、結果として関ヶ原での東軍勝利に貢献した。「蛍大名」と揶揄された高次が、歴史的な戦略的貢献者となった籠城戦。
慶長5年9月17日〜18日(1600年)
慶長5年9月17〜18日(1600年)、関ヶ原本戦のわずか2日後、近江国佐和山城(現・滋賀県彦根市)において、石田三成の父・正継と兄・正澄が東軍1万5000の大軍を相手に籠城した戦い。守備兵力わずか2800で抗戦するも落城し、正継・正澄兄弟をはじめ石田一族の多くが自刃した。三成の権勢の象徴であった居城が消滅した、関ヶ原掃討戦の象徴的な一幕。
慶長5年9月(1600年)
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いと同時進行で奥羽の地において上杉景勝と最上義光・伊達政宗連合軍が激突した合戦。直江兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め、最上方の頑強な抵抗と関ヶ原敗報を受けて撤退した。
慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
慶長5年8月22〜23日(1600年)、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市)において、東軍・福島正則・池田輝政らが西軍・織田秀信(三法師)の守る岐阜城を二日で攻略した合戦。関ヶ原の戦いの前哨戦として重要な位置を占め、天下分け目の戦いに先立つ東軍の快勝が西軍の戦略的配置を大きく乱した。
慶長5年7月24日〜25日(1600年)
慶長5年7月24〜25日(1600年)、陸奥国白石城(現・宮城県白石市)において、伊達政宗が徳川家康の会津征討に呼応し、上杉方が守る白石城を攻略した戦い。名目上の城代・甘粕景継は会津に在陣中で不在、実際の防衛は景継の甥・登坂勝乃が担い、わずか一日あまりで降伏した。慶長出羽合戦の緒戦として位置づけられる。
慶長5年7月19日〜9月18日(1600年8月25日〜10月14日)
慶長5年(1600年)7〜9月、丹後国田辺城(現・京都府舞鶴市)において、文化人・武将として名高い細川幽斎(藤孝)が西軍の大軍を相手に約2か月間籠城した戦い。後陽成天皇の勅命によって和平が成立し、幽斎は「古今伝授(こきんでんじゅ)」の唯一の継承者として特別に命を救われた。和歌と刀剣を愛した文武両道の名将の最後の籠城戦として名高い。
慶長5年7月19日〜8月1日(1600年8月30日〜9月8日)
慶長5年(1600年)7月〜8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として勃発した籠城戦。徳川家康の老臣・鳥居元忠が伏見城に立て籠もり、石田三成率いる西軍約4万に対して約1800の寡兵で十余日間防戦し、城と運命を共にした。元忠の忠義と玉砕が東軍諸将の士気を高め、関ヶ原の戦いへの序章となった。戦後、血で染まった廊下板は「血天井」として諸寺に移され、今も伏見城の壮絶な最期を伝える。
弘治2年8月24日(1556年9月27日)
弘治2年(1556年)8月24日、尾張国稲生(現・名古屋市西区)で勃発した、織田信長と弟・信行(信勝)の骨肉の戦い。信長はわずか700余の兵で信行・柴田勝家の2000余の大軍を破り、信長の覇権を尾張で確立した最初の実戦である。
弘治2年4月20日(1556年5月28日)
弘治2年(1556年)4月20日、美濃国長良川河畔(現・岐阜市)において、斎藤道三(さいとうどうさん)が実子・斎藤義龍(よしたつ)率いる軍勢と戦い討死した合戦。「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた道三が、息子に裏切られて最後を遂げたこの戦いは、岳父・道三の支援を頼みにしていた織田信長に大きな衝撃を与えた。
天正元年8月(1573年8月)
天正元年(1573年)、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(近江国・現滋賀県)を総攻撃した合戦。小谷城は天下に名高い山城の要害であったが、信長の大軍と武将たちの連携攻撃の前に陥落。浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。この攻城戦は、信長の天下統一への道を大きく開くとともに、後の明智光秀による本能寺の変への遠因をはらんだ。
天正9年3月22日(1581年4月25日)
天正9年(1581年)3月22日、遠江国高天神城(現・静岡県掛川市)が徳川軍に落城。武田勝頼が籠城軍への救援を送れず、城将・岡部元信らは玉砕。武田の「天下無双の堅城」を守り切れなかった勝頼への武田家臣団の失望は決定的となり、翌年の武田氏滅亡への転機となった悲劇の攻城戦。
天正6年3月13日(1578年4月19日)
天正6年(1578年)、上洛を目指した遠征の出陣を目前に、越後の名将・上杉謙信は居城・春日山城で急死した。49歳。後継者を定めていなかったため養子の景勝・景虎による御館の乱が勃発し、越後の勢力は大きく後退した。