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天正6年3月13日(1578年4月19日)
春日山城(現・新潟県上越市)
勢力
上杉軍(遠征準備)
御館の乱・両陣営
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天正5年(1577年)9月、越後国主・上杉謙信は加賀国手取川において織田信長配下の柴田勝家らの軍を打ち破った(手取川の戦い)。「越後の龍」「軍神」と称され、生涯を通じて毘沙門天への信仰篤かった謙信にとって、この勝利は織田氏との対決における大きな足がかりとなった。翌天正6年(1578年)3月、謙信は雪解けを待って上洛を視野に入れた大規模な遠征を計画し、居城・春日山城において諸将に出陣を命じ、自らも3月15日の出陣を予定していたと伝えられる。
しかし出陣を目前に控えた3月9日頃、謙信は居城内の厠(便所)で突然倒れ、昏睡状態に陥った。意識が戻らぬまま数日を経て、天正6年3月13日(1578年4月19日)、謙信は49歳でその生涯を閉じた。あまりに急な死であり、大規模な軍事行動を目前にした軍団にとって衝撃は計り知れないものであった。
謙信の死因については、現在に至るまで確定した説がない。生前の謙信は大の酒豪として知られ、過度の飲酒や塩分の多い食生活の影響による高血圧性の脳卒中(脳溢血)とする説が長らく通説とされてきた。一方で、同時代史料には「虫気」(内臓の疾患)との記載があること、家臣への形見分けを含む具体的な遺言を残していたとされることから、突然の脳卒中というよりも、進行性の疾患であった可能性を指摘する見解もある。暗殺説も語られることがあるが、確たる史料的根拠には乏しく、現在の史学界では病死説が有力とされている。
謙信は生涯独身を貫き実子を持たなかったため、2人の養子——姉の子である上杉景勝と、相模国の後北条氏から人質同然に迎え入れられていた上杉景虎——を後継候補として抱えていた。謙信は生前、どちらを正式な後継者とするか明確に定めておらず、この不備が死後まもなく深刻な内紛を引き起こす引き金となった。
謙信の死からほどなく、春日山城の実城(本丸)を景勝が、城下の御館を景虎がそれぞれ拠点として対立、天正6年5月から翌天正7年(1579年)3月にかけて「御館の乱」と呼ばれる大規模な内乱が越後国内を二分した。当初は景虎方が優勢とみられたが、実家である後北条氏からの十分な支援を得られず、また景勝方の重臣・直江兼続らの巧みな戦略もあり、最終的に景勝が勝利した。天正7年3月、景虎は鮫ヶ尾城で自刃し、乱は終結した。
熱心な毘沙門天信仰で知られた謙信は、名刀の蒐集家としても名高く、その手元には国宝「山鳥毛(やまとりげ)」(備前福岡一文字派作と伝わる太刀)や、同じく国宝に指定される「謙信景光」(備前長船景光作の短刀、刃に秩父大菩薩・大威徳明王の梵字が彫られる)など、名だたる名刀が伝えられた。これらは現在も上杉家ゆかりの宝物として大切に保存されている。
御館の乱による内紛は、越後国内の武力と統治体制を著しく消耗させた。乱を勝ち抜いた景勝は上杉家の家督を継いだものの、内乱で疲弊した上杉氏はもはや織田信長の勢力拡大に単独で対抗できる状態ではなくなっていた。結果として謙信が目指した上洛の夢は永遠に潰え、上杉氏は以後、織田・豊臣・徳川という天下人の勢力図の中で、地域大名としての立場に甘んじることとなった。謙信という稀代の名将の急死とそれに続く内紛は、戦国後期の勢力均衡を大きく揺るがす歴史的な転機であった。