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天正元年8月(1573年8月)
近江国浅井郡小谷(現・滋賀県長浜市湖北町伊部)
勢力
織田軍
浅井軍(籠城方)
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天正元年(1573年)8月、織田信長は近江国北部の浅井氏の居城・小谷城を総攻撃し、浅井長政を自刃させて浅井氏を滅亡させた。この「小谷城の戦い」は、信長の天下統一への道程における重要な節目であり、浅井・朝倉両氏という近江・越前の有力勢力を同時に除去することで、信長の畿内支配を盤石なものとした合戦である。
小谷城は現在の滋賀県長浜市湖北町にある小谷山(標高495m)に築かれた山城で、自然の険峻さを最大限に活用した要害として戦国時代有数の堅城として知られた。浅井氏は三代にわたってこの城を本拠とし、北近江の支配者として君臨してきた。
浅井長政と織田信長の関係は、当初友好的なものであった。長政は信長の妹・お市の方を娶り、信長の義弟となった。しかし元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を攻めた際、浅井長政は朝倉氏との旧盟を守って信長に反旗を翻した。これが姉川の戦い(元亀元年・1570年)へとつながり、以後浅井・朝倉連合軍と織田軍は三年間にわたって激しく対立した。
三年の攻防の末、天正元年(1573年)8月、信長はまず越前の朝倉義景を撃破(一乗谷の戦い)し、次いで小谷城の総攻撃に転じた。朝倉氏の滅亡によって、浅井長政は完全に孤立した。
小谷城の攻略において中心的な役割を担ったのは、後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉である。秀吉は信長から北近江方面を任され、小谷城の包囲・攻略を指揮した。この功績が、後に秀吉が北近江を所領として与えられ長浜城を築く礎となる。
小谷城は本丸・二の丸・京極丸・山王丸・大嶽などの曲輪(くるわ)が尾根伝いに連なる大規模な山城であった。秀吉はまず北部の大嶽(おおづく)・山王丸を制圧し、城の連絡を断つことで籠城方を分断した。父・浅井久政が守る京極丸が孤立すると、久政は自刃。長政も本丸での抵抗を続けたが、天正元年9月、本丸も陥落し、長政は辞世の句を残して自刃した。享年29歳。
小谷城落城後、信長は浅井長政・父久政、および朝倉義景の頭蓋骨を漆塗りの金箔で飾り、新年の宴席で諸大名に示したとされる(「髑髏杯(しゃれこうべさかずき)」)。この行為は信長の苛烈な権力誇示として後世に語り継がれており、敵将の首・骸骨を見せることで自らの絶対的優位を示す戦国的慣行であった。
浅井長政が使用した刀剣については詳細な記録が少ないが、北近江の武将として備前・相州系の名刀を帯刀していたと推定される。また信長は、小谷城落城後に城内の武具・刀剣類を没収している。戦国時代の落城において、名城の武器庫に蓄積された名刀が征服者の戦利品となることは珍しくなく、信長の刀剣コレクションには小谷城をはじめとする各地の落城で得た戦利刀が含まれていたと考えられる。
特筆すべきは、織田軍の武将の中に「へし切長谷部(へしきりはせべ)」の所有者として有名な武将が含まれていた点である。へし切長谷部は信長所有の名刀として名高く、後に黒田長政(如水の子)が所持したことで知られる。信長は小谷城攻略の戦功を家臣に土地だけでなく刀剣によって報いることもあり、名刀の授受が主従関係の確認と武将の序列を示す政治的機能を果たした。
小谷城の戦いには明智光秀も参加している。光秀は信長の命により近江の担当武将として活動しており、浅井・朝倉征伐においても重要な役割を果たした。しかし一説によれば、信長が妹・お市の方(浅井長政の正室)を保護し秀吉の庇護下においた一方で、信長の浅井一族への苛烈な処置が家臣団の間に複雑な感情を生んだとも言われている。
天正10年(1582年)に起きる本能寺の変における光秀の謀反の動機として、様々な説が提示されているが、小谷城の戦い以来の信長の苛酷な仕置きへの反感が、光秀の心理に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。
小谷城の戦いの歴史的意義は三点にまとめられる。第一に、浅井・朝倉という信長包囲網の有力勢力が同時に消滅したことで、信長の天下統一が現実的な射程に入った。第二に、秀吉の北近江奉行としての活躍が評価され、後の長浜城主・「出世の踏み台」となった。第三に、北近江が織田の直轄領となることで、刀剣の名産地・近江の管理が信長の手に渡った。
近江は古来より日本刀の生産拠点として重要な地域であり、近江の刀工は各地の有力武将に刀を供給してきた。浅井氏の滅亡と信長による近江支配の確立は、この地域の刀工集団の保護者が変わることを意味し、織田政権下での刀剣生産体制の再編につながった。