※画像はイメージです。丹羽長秀
Niwa Nagahide
織田四天王・越前若狭統括
解説
生涯と出自
丹羽長秀(にわ ながひで、1535年〜1585年)は、尾張国出身の武将で、若くして織田信長に仕えた最古参の重臣の一人である。「米五郎左(こめごろうざ)」の異名で知られ、これは「なくてはならぬ米のように欠かせぬ五郎左(長秀の通称)」の意で、信長の厚い信頼を物語る呼び名であった。信長の一門衆に準じる別格の待遇を受け、家中で重きをなした。
織田政権を支えた宿老
長秀は武勇のみならず、内政・外交・普請(土木建築)に卓越した能力を発揮した万能の将であった。天正4年(1576年)から始まる安土城の築城では総奉行を務め、信長の壮大な構想を現実の城郭として結実させた。各地の合戦にも従軍し、越前一向一揆の平定などで戦功を重ねている。天正10年(1582年)の本能寺の変の後は、清洲会議で羽柴秀吉と結んで柴田勝家と対立し、織田政権の後継をめぐる主導権争いで秀吉を支持した。賤ヶ岳の戦いの後には越前一国と加賀二郡を与えられ、北ノ庄城主として大大名となった。天正13年(1585年)に病没した(積聚〈しゃくじゅ〉=腹中の腫瘍を患ったと伝わる)。〔死に臨んで自ら腹を切り腫瘍を秀吉に送りつけたとする逸話は俗説で、史実性は確かでない〕
刀剣と武具
丹羽長秀ゆかりの刀剣(愛刀)として知られるのは、大脇差「にっかり青江」、小太刀「鉋切長光」、脇差「あざ丸」の三振である。第一に「にっかり青江」——南北朝時代の備中青江派・青江貞次による大脇差(刃長約60.3センチメートル、重要美術品)である。柴田勝家が所持したのち、勝家の子・勝敏を経て長秀の手に渡り、さらに豊臣秀吉へと献上され、最終的に讃岐丸亀の京極家に伝来した。刀身の「羽柴五郎左衛門尉長(はしばごろうざえもんのじょうなが)」の金象嵌銘は、長秀の子・長重が入れたものとされる。
第二に「鉋切長光(かんなぎりながみつ)」——鎌倉時代の備前長船派・長光の小太刀(重要美術品、現在は水戸徳川家ゆかりの徳川ミュージアム蔵)で、六角義賢から織田信長を経て長秀に下賜されたと伝わる。第三に、平家の勇将・藤原景清の佩刀と伝わる「あざ丸」は、長秀が所持した後に眼病を患ったため熱田神宮に奉納したという逸話が残る。越前を領した長秀の統治下では、美濃から移り住んだ刀工が興した越前打刀の鍛冶も栄えており、刀剣文化の保護者としての側面も持っていた。
後世の評価
長秀の没後、その存在の大きさは織田系政権の急速な流動によってあらためて証明された。「なくてはならぬ」と評された万能の宿老がいかに組織を支えていたかは、彼の死後の政局が物語っている。武辺一辺倒ではなく、築城・行政・調停に長けた総合力の将として、長秀は織田家臣団のなかでも独自の評価を確立している。
丹羽長秀の愛刀・太刀にはどんなものがあるか
丹羽長秀ゆかりの名刀として伝わるのは、大脇差「にっかり青江」、小太刀「鉋切長光」、そして「あざ丸」の三振である。「にっかり青江」は南北朝期の備中青江派・青江貞次の作で、柴田勝家から長秀を経て豊臣秀吉に献上され、讃岐丸亀の京極家に伝来した(現在は丸亀市立資料館蔵、重要美術品)。「鉋切長光」は鎌倉期の備前長船・長光の小太刀で、六角義賢・織田信長を経て長秀に下賜されたと伝わり、現在は水戸徳川家ゆかりの徳川ミュージアムが所蔵する。「あざ丸」は平家の勇将・藤原景清の佩刀と伝わる古刀で、これを帯びると眼を病むという伝説をもち、長秀も眼病を患ったため熱田神宮に奉納したという(現在も熱田神宮が所蔵、刀種は脇差)。長秀ゆかりの名物は太刀そのものというより脇差・小太刀が中心だが、いずれも織田・豊臣政権を彩った名刀の流転を今に伝えており、宿老・丹羽長秀の格の高さを物語っている。
所持した刀剣
- にっかり青江(青江貞次作の大脇差・重要美術品。柴田勝家から長秀の手に渡り、のち豊臣秀吉へ献上された)
- 鉋切長光(備前長船長光作の小太刀・重要美術品。六角義賢から織田信長を経て長秀に下賜されたと伝わる)
- あざ丸(平家の勇将・藤原景清の佩刀と伝わる脇差。長秀所持ののち熱田神宮に奉納された)