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元亀元年6月28日(1570年7月30日)
近江国坂田郡姉川河畔(現・滋賀県長浜市野村町付近)
勢力
織田・徳川連合軍
浅井・朝倉連合軍
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元亀元年(1570年)6月28日、近江国坂田郡の姉川河畔で行われた「姉川の戦い」は、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が激突した戦国時代屈指の野戦である。この合戦は、信長の天下統一路線に対する北近江・越前の抵抗の頂点であり、浅井・朝倉同盟の実質的な終焉を告げる転換点となった。
姉川の戦いの直接的な原因は、同年4月の「金ヶ崎の退き口」にある。信長は朝倉義景を討つため越前に進攻したが、妹・お市の方の夫である浅井長政が突如として信長に背き、朝倉と結んで信長軍の背後を脅かした。信長は命からがら撤退を余儀なくされ、この窮地を救ったのが殿軍を務めた羽柴秀吉と明智光秀であった。
撤退後、信長は浅井長政を打倒するべく軍勢を立て直し、徳川家康に援軍を求めた。家康は快く応じ、織田軍と合流。6月末、両軍は小谷城を望む姉川の北岸に布陣した。
6月28日早朝、両軍は姉川を挟んで対峙した。信長は織田軍を自らが率いて浅井軍と、徳川軍を家康が率いて朝倉軍と対戦させる陣形を採った。
当初、朝倉軍は数の上で優勢であり、徳川軍の左翼を圧迫した。この危機的状況を打開したのが、徳川家の重臣・榊原康政(さかきばらやすまさ)と内藤正成らの奮戦である。康政は朝倉軍の側面を突き、劣勢だった戦局を一気に逆転させた。この功により、榊原康政は徳川四天王の一人として名声を確立することになる。
一方、織田軍と浅井軍の正面衝突も激烈を極めた。浅井長政は勇猛果敢な武将として知られ、旗下の将兵も精強であった。しかし朝倉軍が崩れると浅井軍の側面も突かれる形となり、最終的に浅井・朝倉連合軍は大きな打撃を受けて撤退を余儀なくされた。
戦後の記録によれば、浅井・朝倉側の戦死者は数千に及んだとされ、一方の織田・徳川軍の損害は比較的軽微であったという。
姉川の戦いは「河原での野戦」という性格から、刀・槍による近接戦闘が特に熾烈であったことで知られる。鉄砲が戦場に普及し始めた時代ではあったが、河川を渡って対峙する野戦においては、近接白兵戦の比重が依然として高く、刀剣の実戦的意義が色濃く残っていた。
浅井家の刀剣文化については、長政の曽祖父・浅井亮政の時代から北近江の刀工との繋がりが伝わる。近江には「近江派」と呼ばれる刀工群が存在し、平安時代末から鎌倉時代にかけての「古青江(こあおえ)」を源流とする刀剣が北近江の武将たちに重用されていた。
特に注目されるのが、織田信長と浅井長政の間にあった「義兄弟」の関係と、それが刀剣の贈答という形で表れていた可能性である。戦国大名間では、同盟を締結する際に名刀を贈り合う慣習があり、信長と長政の縁組みにもそうした刀剣の贈答があったと推測される。しかしこの合戦では、かつての盟友同士が刀を抜き合う事態となった。
信長が所持したとされる名刀「義元左文字(よしもとさもんじ)」は、桶狭間で討ち取った今川義元の佩刀を戦利品として持ち帰ったものとして知られるが、このような戦場での名刀の移動は戦国時代において珍しくなかった。姉川の激戦の場でも、武将たちが佩用した刀が激しい白兵戦の道具として使われた。
姉川の敗戦後、浅井長政は北近江の本拠地・小谷城に籠った。小谷城は険峻な山城であり、その守備力は当時最高水準のものであった。しかし、姉川での敗北によって長政の勢力は大幅に削がれ、朝倉義景との関係も変化していった。
長政の妻はお市の方(織田信長の妹)であり、二人の間には茶々・初・江という三姉妹が生まれていた。この三姉妹はのちに「浅井三姉妹」として戦国歴史の中に名を残す。茶々は豊臣秀吉の側室・淀殿となり、豊臣秀頼の母として大坂の陣に至る歴史の大きな流れの中心に立つことになる。
姉川の戦いで最大の殊勲を挙げた榊原康政は、徳川四天王として酒井忠次・本多忠勝・井伊直政と並び称される武将である。康政の武功は姉川のみならず、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いにも及ぶ。
徳川武将団は、刀剣に関しても高い見識を持つことで知られた。家康は自身の刀剣コレクションを精選し、江戸幕府の成立後には「将軍家の名刀」として正宗・行光・義元左文字など錚々たる名品が管理された。姉川の戦いで活躍した徳川武将たちの佩刀もまた、東海・三河の刀工が鍛えた優品が多く、これらは後世の刀剣コレクターが探求する史料となっている。
姉川の戦いにおける織田・徳川の勝利は、浅井・朝倉同盟の実質的な崩壊を引き起こした。この戦いの後、信長は「包囲網」と呼ばれる武田信玄・本願寺・浅井・朝倉らの連合的な抵抗に直面するが、個々の敵を各個撃破していく方針を採った。
浅井長政は元亀4年(1573年)8月、信長軍による小谷城の総攻撃によって自刃し、浅井家は滅亡する。朝倉義景も同年に滅亡した。姉川の戦いから三年後のことである。
この合戦は、日本刀が実戦の武器として最も激しく使われた時代の末期に位置する。以後、信長の長篠の戦い(1575年)での大規模な鉄砲活用に代表されるように、戦場における白兵戦の比重は次第に低下していく。しかし姉川の河原で交わされた刀と槍の戦いは、日本刀が「戦場の主役」であった時代の象徴的な場面として、刀剣史に刻まれている。