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天正5年10月(1577年)
大和国信貴郡信貴山城(現・奈良県生駒郡平群町信貴山)
勢力
織田軍
松永軍(信貴山城籠城衆)
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天正5年(1577年)10月、大和国信貴山(現・奈良県平群町)の険峻な山上に築かれた信貴山城において、「三大梟雄」のひとりに数えられる戦国の謀将・松永久秀(まつながひさひで)は、その波乱に満ちた生涯に幕を引いた。名物茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」を手放すことを拒み、天守に火薬を仕掛けて爆死したとも、切腹したとも伝えられるその最期は、「戦国最後の謀将」の矜持をかけた壮絶な散り際として後世に語り継がれている。
松永久秀は生年不詳(諸説では1508年説が有力)、摂津あるいは阿波の出身とされる人物で、三好氏の家臣として台頭し、やがて主君を凌ぐ権勢を誇る大大名へと上り詰めた。彼の名は戦国史において次の三点で特に記憶されている——「主君(三好義継)への謀反」「東大寺大仏殿の焼打ち」「将軍(足利義輝)の殺害への関与」。これら三つの「大悪行」は、後世の講談・小説において久秀を「戦国最大の悪人」として描く根拠となったが、近年の研究ではそれぞれ誇張・誤伝が多いことも指摘されている。
一方で確かなのは、久秀が「茶人(ちゃじん)」として卓越した美意識を持ち、名物茶道具を多数収集していたことである。「平蜘蛛」という茶釜は、その優雅な形状から名付けられた久秀最愛の名物であり、天下随一の名品として広く知られていた。
松永久秀と織田信長の関係は複雑であった。信長が上洛した永禄11年(1568年)、久秀はいち早く信長に従属し、大和国の支配を認められた。しかし元亀4年(1573年)に最初の謀反を起こし、信長に降伏。その際、久秀は信長に「平蜘蛛」(あるいは名物鉄砲「国友筒」)を献上して許されたとも伝えられる。
天正5年(1577年)、久秀は二度目の謀反を起こした。信長は久秀の大和国の城を次々に攻略し、最終的に信貴山城を包囲した。信長は使者を送り、久秀に「佐久間信盛の幕下に加わるか、さもなくば平蜘蛛を献上せよ」と要求したとされる。しかし久秀は「平蜘蛛は渡さない」という決意を固めていた。
信貴山城は信貴山(標高437m)の山頂部に築かれた山城であり、西麓に流れる大和川と龍田川を望む戦略的要衝であった。久秀はこの険峻な山城に数多くの将兵とともに立て籠もり、信長・信忠父子の大軍を相手に籠城を続けた。
包囲は長くは続かなかった。補給が断たれた信貴山城の守備は時間の問題であり、久秀は早い段階から「最後は自らの手で幕を引く」ことを決意していたと考えられる。
天正5年10月10日(1577年11月19日)、信貴山城は陥落した。久秀の最期については複数の伝承がある。最も劇的な伝承は、「久秀が愛用の平蜘蛛に火薬を詰め、天守の上でそれを爆発させて自らも爆死した」というものである。一方で、切腹や自刃といった通常の武士の作法で最期を迎えたとする説も存在する。爆死説は江戸時代に講談を通じて広まったもので、史料的根拠は希薄だが、「平蜘蛛を渡さなかった」という点については諸史料の一致するところである。
松永久秀の最期において際立つのは、「刀」ではなく「茶釜」が主役である点である。戦国大名の最期といえば、腹を切る「刀」のイメージが強い。しかし久秀は、刀による切腹よりも、名物茶道具「平蜘蛛」の破壊に自らの最期の意味を込めた。
これは、日本刀が「武士の魂」であるのと同様に、茶道具が「武士の美意識・文化的洗練の象徴」であったことを示している。久秀にとって「平蜘蛛」を渡すことは、単なる降伏ではなく、自らの精神的核心を征服者に明け渡すことを意味した。この拒絶は、刀で腹を切る行為と同様の——あるいはそれ以上の——武士としての最後の意地の表れだったのかもしれない。
信貴山城に立て籠もる松永軍の将兵は、大和の刀工たちが鍛えた刀を携えていたと考えられる。奈良・大和地方は「手掻(てがい)」派の刀工を輩出した地域として知られ、鎌倉時代から室町時代にかけて独自の鍛冶文化を育んできた。「手掻包永(てがいかねなが)」はその代表的な存在であり、大和の武将たちに広く愛用された。久秀自身も、謀略と美意識を併せ持つ人物として、大和の名刀を収集・愛用していた可能性は高い。
织田信長が所持した名刀「へし切長谷部(へしきりはせべ)」は、長谷部国重作の一刀である。その名の由来は「信長が膳棚の下に隠れた小姓をこの刀で押し切った(へし切った)」という逸話に基づく。この刀は現在、福岡市博物館に所蔵されている。
信長が久秀から名物茶道具「平蜘蛛」の献上を求めた際、信長の周辺には「へし切長谷部」のような名刀が集まり始めていた。久秀が愛した「平蜘蛛」は、信長が求める「天下の名物」の筆頭であり、この茶釜をめぐる最後の対峙は、日本刀と茶道具という「武士の二つの美意識」が衝突した歴史的場面でもあった。
松永久秀の滅亡後、大和国は织田氏の直接支配下に置かれ、佐久間信盛が当初管理を担った。信貴山城は廃城となり、信貴山の地は毘沙門天への信仰の聖地として今日まで存続している。
久秀の「平蜘蛛爆破」の伝説は、江戸時代の浄瑠璃「太平記」や読本などを通じて全国に広まり、「悪逆非道だが美意識において天下無双の男」というキャラクター像を形成した。現代では漫画・ゲーム・ドラマにおいても「謀将」の典型として描かれ続けている。
信貴山城跡は現在も奈良県平群町に遺構が残り、毘沙門天王寺(信貴山朝護孫子寺)の境内と重なる形で史跡として保存されている。戦国の謀将が最後に選んだ「名物茶釜との道連れ」という壮絶な最期の舞台に立つとき、日本刀の時代に生きた武将たちが持っていた「美への執着」という精神の深さを感じることができる。平蜘蛛は失われ、刀もその多くは散逸したが、信貴山に刻まれた久秀の矜持は、五百年を経た今も消えることなく山の空気に漂っている。