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弘治2年4月20日(1556年5月28日)
美濃国長良川河畔・長良(現・岐阜県岐阜市長良川付近)
勢力
斎藤義龍軍
斎藤道三軍
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弘治2年(1556年)4月、美濃国長良川(現・岐阜市)の河畔において、「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれた下剋上の雄・斎藤道三(さいとうどうさん)が、実の息子・斎藤義龍(さいとうよしたつ)の大軍に敗れて討死した。この「長良川の戦い」は、道三という傑出した戦国大名の壮絶な最期であると同時に、若き織田信長にとって「義父の死」という衝撃的な事件であり、以後10年にわたる美濃制覇の戦いを余儀なくされる歴史的転換点となった。
斎藤道三は戦国時代において、その出自と立身の過程において最も劇的な人物のひとりである。近年の研究(岐阜市歴史博物館等の調査)によれば、道三の「油商人から大名へ」という立志伝説は、父・新左衛門尉(にいざえもんのじょう)と息子・道三の二代にわたる下剋上の結果を一人の人物の話として圧縮したものである可能性が高い。いずれにせよ、斎藤家が西村(にしむら)氏を改姓して土岐氏(美濃守護)の家臣から台頭し、ついには守護代・長井氏を排して美濃の実権を握り、さらに土岐頼芸(よりあき)を追放して美濃国主となった過程は、戦国時代の「下剋上(げこくじょう)」の典型として後世に語り継がれている。
道三の知略と残忍さは他の戦国大名を凌ぐとも言われた。「蝮の道三」の異名は、その狡猾さと毒々しい政治手腕を毒蛇になぞらえたものであり、美濃の諸将はその恐ろしさに怯えた。しかし道三は同時に、文化的教養においても卓越した人物であった。
斎藤道三と織田信長の関係は、単なる政略結婚を超えた特別なものであった。道三は自らの娘・帰蝶(きちょう、後の濃姫)を信長に嫁がせ、美濃と尾張の同盟を結んだ。
天文22年(1553年)春、道三と信長は正徳寺(しょうとくじ、現・一宮市)において秘密の会見を行ったとされる。このとき道三は「うつけ者(愚か者)」と蔑まれていた若き信長の実力を見抜き、「わが子らは信長の門前に控えることになろう」と周囲に語ったという逸話が残る。この会見の約3年後に、長良川の戦いは起きた。
道三は晩年、実子・義龍との対立が深まっていた。義龍は母の出身(土岐頼芸の血を引くとも)の問題や道三の強引な後継指名に不満を持ち、反旗を翻した。道三は信長に美濃国を譲るという遺言状(「道三起請文」)を残し、援軍を求めたが、信長が間に合う前に義龍の大軍に包囲された。
弘治2年(1556年)4月、斎藤義龍は約17,000の大軍を率いて道三の軍と長良川で激突した。道三の手元には約2,700の兵しかなく、戦力差は歴然としていた。
道三は長良川の河岸において義龍の大軍と激しく戦ったが、圧倒的な兵力差の前に敗北を喫した。道三は奮戦の末に討死した。享年63〜65歳(諸説あり)。
道三の首は義龍の兵に取られ、首実検(くびじっけん)が行われた。一説には信長が義龍に書状を送り、道三の首を返却するよう求めたとも伝えられるが、実際には信長が義龍に大きな圧力をかけられる立場ではなかった。
信長は道三の訃報を受けて軍を動かし美濃救援を試みたとも伝わるが、間に合わず撤退した。道三の遺言で美濃を「譲られる」はずだった信長は、義龍が支配する美濃と長期にわたって戦い続けることを余儀なくされた。
長良川の戦いの舞台・美濃国(現・岐阜県)は、日本刀の歴史において「美濃伝(みのでん)」という刀剣流派の産地として特に重要な地域である。「関(せき)の孫六」として知られる「関孫六兼元(せきまごろくかねもと)」は美濃を代表する刀工であり、その鍛えた実戦刀は切れ味の鋭さで特に名高かった。
道三や義龍の将兵は、この美濃の地場の刀工が鍛えた刀を多く携えていたと考えられる。「村正(むらまさ)」もまた、当時の東海地方の武将に愛用された刀剣であった。道三が最後に振るった刀——それが備前刀であれ美濃刀であれ——は、「下剋上で掴んだ美濃」を守るために振るわれた最後の一刀であった。
美濃の稲葉山城(現・岐阜城)は、道三の時代から岐阜の地の象徴的な城郭であり、後に信長が攻略して「岐阜」と改名したことでも知られる。長良川の戦いでは、この稲葉山城を中心とした美濃の刀剣文化圏が、父子の争いの舞台となった。
「稲葉江(いなばごう)」は郷義弘(ごうよしひろ)作の短刀で、美濃国の稲葉氏に伝来したとされる名刀である。郷義弘は越中(現・富山県)出身の刀工だが、その作品は美濃地方の大名・武将にも広く伝来した。
道三の時代の美濃において、名刀は単なる武器にとどまらず、大名の権威・政治力を示す「宝」としての側面を持っていた。道三が美濃制覇の過程で収集した刀剣がどのようなものであったかは不明だが、「美濃の覇者」として多くの名刀を手元に集めていたことは想像に難くない。
斎藤道三の死後、美濃は斎藤義龍→斎藤龍興(たつおき)と続く「道三以後の斎藤家」によって支配されたが、その統治は不安定であった。信長は尾張の統一を完成させた後、永禄10年(1567年)についに稲葉山城を攻略(「墨俣一夜城」の伝説もこの過程で生まれた)し、美濃国を完全に制圧した。この際に信長は城下を「岐阜」と改名し、「天下布武(てんかふぶ)」のスタンプを使用し始めた。
道三が信長に遺した「美濃の遺言」は、実現まで11年を要したが、最終的には信長によって実現された。長良川の河岸で道三が命を落とした地から数キロに位置する稲葉山城(岐阜城)を信長が手に入れたとき、道三の「夢」は一種の形で成就したと言えるかもしれない。
現在の岐阜市には、斎藤道三を祀る「常在寺(じょうざいじ)」(道三の菩提寺)や、長良川沿いに整備された史跡が残る。岐阜城(旧稲葉山城)は観光名所として多くの人が訪れ、道三・信長という二人の傑出した戦国大名が拠った地として岐阜を象徴する存在となっている。
長良川の戦いの地には特定の史跡碑も建てられており、道三の最期を偲ぶことができる。刀剣愛好家にとって、美濃は「関の孫六」「美濃伝」の刀剣文化を探求する聖地であるとともに、「下剋上の英雄が最後に討ち果たされた歴史の地」として特別な意味を持つ場所である。長良川の清流を眺めながら、470年前にこの地で繰り広げられた父子の死闘と、その後の信長による美濃制覇というドラマを想うとき、日本刀の時代の人間の業(ごう)の深さを感じずにはいられない。