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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
15件のイベント
明和9年(1772年)2月29日(旧暦・新暦4月1日)
明和9年(1772年)2月29日(新暦4月1日)、江戸・目黒行人坂の大円寺から出火した大火は、翌日の正午まで燃え続け、江戸の約3分の1を焼き尽くした。死者14,700人、焼失家屋は10万軒以上に及ぶ江戸最大級の大火「明和の大火(目黒行人坂大火)」は、江戸に集積していた刀工工房を多数焼失させ、幕末に向けた江戸刀工集団の再編を余儀なくさせた歴史的事件である。
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慶長8年(1603年)2月12日
慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。関ヶ原の戦いから2年余りを経て実現したこの政権確立は、以後260余年にわたる江戸時代の礎となった。幕藩体制の整備、武家諸法度の制定、参勤交代制度の法制化により、武士身分と刀装文化は高度に制度化され、日本刀は武器から武士の権威と美の象徴へと昇華していった。
慶長17年(1612年)4月13日
慶長17年(1612年)4月13日、豊前国・巌流島において宮本武蔵と佐々木小次郎が一騎討ちを行い、武蔵が勝利した。日本の剣術史・武士道文化を象徴する伝説の決闘。
慶長14年3月4日〜4月4日(1609年、山川出港から首里城開城まで)
慶長14年(1609年)、薩摩藩主・島津家久の命を受けた樺山久高率いる約3,000の軍勢が琉球王国へ侵攻した。山川港を出港し奄美大島・徳之島・沖永良部島を経て運天港に上陸、首里城を開城させ国王・尚寧を降伏させた。以後、琉球王国は日本と中国の双方に従属する「日支両属」体制へと移行し、幕末までその立場を保つことになる。
慶安4年(1651年)7月
慶安4年(1651年)、軍学者・由井正雪と槍術家・丸橋忠弥を首謀者とする牢人たちが、幕府転覆を図った未遂のクーデター計画。三代将軍徳川家光の死と幼将軍家綱の相続を好機とみて挙兵を企てたが、密告により事前に発覚。正雪は駿府で自刃し、忠弥は磔刑に処された。大量に生まれた牢人の困窮という泰平期の矛盾を露呈し、幕府の牢人政策を転換させた事件である。
寛永11年11月7日(1634年12月26日)
寛永11年(1634年)11月7日、伊賀国上野(現・三重県伊賀市)の鍵屋の辻において、剣客・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が義弟・渡辺数馬(わたなべかずま)の仇敵・河合又五郎(かわいまたごろう)一行に対して助太刀し、数馬が又五郎を討ち取った事件。「日本三大仇討ち」のひとつに数えられる江戸時代最大の果し合いであり、荒木又右衛門の卓越した剣技と胆力が伝説となった。
天明元年(1781年)頃〜文政年間(1818〜1830年)
天明元年(1781年)に江戸へ出府した水心子正秀(1749〜1823年)は、当時の刀剣界に漂う華美・形式主義を批判し、「日本刀は古刀の昔に復するべき」とする「刀剣復古論」を提唱した。『刀剣実用論』『剣工秘伝志』などの著作を通じて古刀期の鎌倉・南北朝様式への復帰を説き、全国から100名を超える弟子が工房に集まった。正秀の理論は、大慶直胤・源清麿らと並ぶ「江戸三作」の名工を生み出し、衰退していた日本刀文化を劇的に再生させた。刀剣史における「新刀」から「新々刀」への分水嶺として位置づけられるこの運動は、幕末の刀剣需要急増と相まって、廃刀令前夜までの刀剣黄金期を生み出した。
天保8年(1837年)2月19日
天保8年(1837年)2月19日、元大坂東町奉行所与力・大塩平八郎が民衆救済を掲げて大坂で蜂起。江戸時代最大規模の都市反乱として、幕末志士にも多大な影響を与えた。
天保4年(1833年)〜天保9年(1838年)
天保4年(1833年)から天保9年(1838年)にかけて、日本全土を襲った大規模な飢饉。寒冷化による凶作が続き、特に東北地方で被害が深刻化した。日本全体で約125万人の人口減少を記録し、江戸では毎日150人から200人超の餓死者が発生。飢餓による社会不安の中で、大塩平八郎の乱・天保騒動など大規模な一揆・反乱が相次ぎ、幕末への社会的混乱を加速させた。徳川幕府の統治能力の低下と、江戸時代体制の根本的な危機を露呈した重大事件である。
享保4年(1719年)11月3日
享保4年(1719年)11月3日、8代将軍徳川吉宗の命を受けた本阿弥光忠が「享保名物帳」を編纂・献上した。平安時代以降の名刀274振(現存刀168口・焼失80口・追記26口)を銘・来歴・寸法・評価額とともに体系的に記録したこの名刀目録は、江戸幕府の享保の改革を背景に、武士の刀剣鑑識眼の涵養を目的として作成された。現代でも刀剣研究の必須資料として参照され続ける「日本刀のバイブル」として、日本刀文化の体系化における金字塔的事業となった。
1864-09-05
文久3年〜元治元年(1863〜1864年)、長州藩が外国船を砲撃したことに対し、英米仏蘭4カ国連合艦隊が下関を報復攻撃した戦争。元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)、17隻の連合艦隊が関門海峡の長州砲台を集中砲撃して制圧し、長州軍は壊滅的な敗北を喫した。この戦争は長州藩に攘夷の不可能性を悟らせ、倒幕・明治維新への転換点となった。
1864-03-27
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷過激派「天狗党」が藤田小四郎・武田耕雲斎の指導のもと筑波山に挙兵し、幕府軍・佐幕派諸藩と戦った幕末水戸藩最大の内乱。京都をめざして西上した天狗党は、越前・敦賀で降伏し、武田耕雲斎ら353名が処刑された。攘夷思想の発祥地・水戸藩を舞台にした、尊攘運動の悲劇的な末路。
1863-08-15
文久3年(1863年)7月2日〜3日(旧暦)、薩摩藩とイギリス艦隊が鹿児島湾で交戦した戦争。生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊7隻に対し、薩摩砲台が砲撃を開始。英艦は薩摩の艦船を焼き払い市街を砲撃したが、薩摩も激しく抵抗し英艦を大破させた。この戦争を機に薩摩は攘夷の非現実性を悟り、英国との関係を改善して倒幕・近代化路線に転換した。
1701年4月21日(元禄14年3月14日)/ 討ち入り: 1703年1月30日(元禄15年12月14日)
元禄14〜15年(1701〜1703年)、播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に斬りつけ改易となり、翌年に大石内蔵助率いる四十七士が吉良邸に討ち入りを果たした事件。日本の「義」と武士道を体現した歴史的事件。
1637年10月25日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)
寛永14〜15年(1637〜1638年)、肥前国島原・天草地方のキリシタン農民が天草四郎時貞を大将として幕府に反乱。約37,000人が原城に籠城し、12万の幕府軍と激戦の末に鎮圧された。江戸時代最大かつ最後の大規模一揆であり、鎖国政策を決定づけた事件。