新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
15件のイベント
文治5年7月〜9月(1189年8月〜10月)
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を討伐し、奥州(陸奥・出羽)を制圧した軍事行動。平泉文化の終焉と鎌倉幕府の全国支配確立を意味する戦いであり、逃亡した源義経をかくまった泰衡への報復として実施された。
詳しく読む →
文永11年(1274年)10月
文永11年(1274年)10月、フビライ・ハーンが派遣した元・高麗連合軍約3万が博多湾に上陸した第1次蒙古来襲(元寇前期)。集団戦法・火薬兵器という未知の戦術に戸惑いながらも、日本の武士たちは個人武芸の頂点を担う刀剣で応戦した。この戦いは日本刀の実戦的優位性と限界を同時に示し、その後の鎌倉後期刀剣技術の革新を促した転換点である。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたり、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍が北九州へ来襲した対外戦争。神風(台風)による元軍の壊滅と、日本の刀剣技術に革命をもたらした転換点として知られる。
承元2年(1208年)
承元2年(1208年)、後鳥羽上皇は全国の優秀な刀工を水無瀬宮に招集し、月番制で交代に作刀にあたらせる「御番鍛冶制」を設立した。備前・備中・山城の名工約40名が選抜され、上皇自らも「菊御作」の号で作刀に参加した。この制度は日本刀を武器の枠を超えた芸術品へと昇華させ、鎌倉中期の刀剣黄金時代を生み出した。後世の権力者が刀工を厚遇する慣例の嚆矢となった朝廷主導の刀剣文化振興策として、日本刀史上最も重要な文化政策の一つに数えられる。
弘安4年(1281年)
弘安4年(1281年)、元・高麗連合軍約14万人・4400隻が博多湾に来襲した第二次蒙古襲来。北条時宗が整備した石塁と日本武士の夜襲・白兵戦、および7月30日の暴風雨(神風)により元軍は壊滅した。鎌倉後期の日本刀が実戦でその真価を問われた最大の事件であり、備前長船の長光・相模の正宗らが活躍した刀剣黄金期と重なる歴史的戦役。
建長年間(1249〜1256年)
建長年間(1249〜1256年)、鎌倉幕府執権・北条時頼の招聘により山城から粟田口国綱が鎌倉へ移住し、その子または養子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)が相州(相模国、現・神奈川県)に根づいた技法から相州伝の基盤を形成した。国光は山城伝と備前伝の両技術を統合し、荒沸出来と呼ばれる強烈な刃文を特徴とする新様式を創出。この技法は弟子の正宗(まさむね)・行光(ゆきみつ)に受け継がれ、「天下五剣」に数えられる名刀群を生んだ相州伝として完成した。
建暦3年5月2日(1213年6月2日)
建暦3年(1213年)5月、鎌倉で起きた鎌倉幕府の内部抗争。侍所別当・和田義盛が北条義時に対して武力蜂起したが、敗れて滅亡した。この合戦により北条氏の幕府内支配権が一層強化され、執権政治の確立に決定的な役割を果たした。また和田義盛が蒐集していた名刀が戦後に各地に散った史実は、刀剣の流転という歴史の一側面を示す。
建保7年1月27日(1219年2月13日)
建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮の石段で甥の公暁に暗殺された。右大臣拝賀の式典直後の凶行は、源頼朝以来の源氏直系将軍家を3代で断絶させ、北条氏による執権政治を決定的なものとした。太刀で首を打たれた実朝の最期は、日本史上最も衝撃的な政変の一つであり、その後の武家政権史に深刻な影を落とした。
宝治元年(1247年)6月5日
宝治元年(1247年)6月、北条時頼が三浦泰村一族を鎌倉で滅ぼした幕府内部の権力闘争。武士の集団自刃という名誉死の形式を鮮烈に示し、北条氏の権力独占を決定的に固めた政変。
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)頃
嘉禎4年(1238年)頃、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町)において光忠(みつただ)が作刀を開始し、備前長船派の基盤を確立した。後鳥羽上皇の御番鍛冶制(1208年)で隆盛した福岡一文字派の技術的遺産を受け継ぎつつ、吉井川流域の地理的優位性と豊富な砂鉄資源を活かして独自の様式を発展させた。光忠の子・長光、孫・景光へと三代にわたり継承された長船派は鎌倉〜室町時代を通じて日本最大の刀剣生産地となり、数多の名将が長船作を愛刀とした。
元弘元年8月(1331年)〜元弘3年5月(1333年5月)
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が幕府討幕を企て笠置山で挙兵した乱。楠木正成が千早城に籠城して幕府大軍を翻弄し、足利尊氏・新田義貞の離反によって元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡。約140年続いた武家政権が終焉し、建武の新政へと続く中世最大の政変を引き起こした。
元弘3年5月8日〜22日(1333年6月3日〜16日)
元弘3年(1333年)5月、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕の令旨を受けて挙兵し、鎌倉幕府の本拠・鎌倉を陥落させた歴史的な戦い。稲村ヶ崎での「引き潮」の奇跡と北条一族の集団自害(東勝寺合戦)——鎌倉幕府の滅亡は、武士の時代の第一の転換点として日本史に刻まれている。
1285-12-17
弘安8年(1285年)11月、鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛が内管領の平頼綱に滅ぼされた政変。北条得宗専制体制が確立される一方、御家人社会の分裂を深め、幕府衰退の遠因を形成した。
1221年(承久3年)
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を企て挙兵したが、幕府軍の圧倒的な大軍に惨敗。上皇は隠岐に流され、朝廷の権威は大きく失墜した。鎌倉武家政権の確立を決定づけた政変。
1185-11-28
文治元年(1185年)、源頼朝は後白河法皇から守護・地頭設置権を認められ、武家による統治機構「鎌倉幕府」の実質的な基盤を確立した。貴族社会が支配してきた日本に初めて武士が政権を握るこの転換は、日本刀が武士の魂・権威の象徴として尊崇される文化的素地をつくり出した。