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嘉禎4年/暦仁元年(1238年)頃
備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町)
勢力
長船光忠(開祖)
備前一文字派(先行・技術的源流)
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嘉禎4年(1238年)頃、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町吉岡)において光忠(みつただ)が作刀を本格的に始め、備前長船派の礎を築いた。この年代については、光忠には年紀銘のある作刀が現存しておらず、子の長光が文永11年(1274年)に年紀銘作を残していることから、その父の活動期を逆算して推定されたものである。
備前国は古代から砂鉄(真砂鉄・山砂鉄)の産地として知られ、吉井川流域の長船地域は河川交通による流通の便と燃料となる木材の豊富さも相まって、刀剣生産の好適地であった。鎌倉時代以前から備前には古備前と呼ばれる刀工群が存在し、包平・正恒・友成らが活躍していた。鎌倉時代前期には後鳥羽上皇の御番鍛冶制(1208年)に備前から多数の刀工が参加し、福岡一文字派(則宗・吉房・助真ら)が朝廷お墨付きの最高品質刀工として名声を確立していた。
長船はこの古備前・福岡一文字の伝統の延長上に生まれた。光忠の父とされる近忠(ちかただ)の存在は記録にあるが現存刀が確認されておらず、光忠が実質的な長船派の祖と位置づけられている。
光忠の刀は「地映り(じうつり)」と呼ばれる刃中の映りを持つ備前伝の典型的な地鉄を特徴とし、刃文は沸出来の丁子(ちょうじ)乱れを主体とする。一文字派の華麗な丁子乱れを受け継ぎながらも、より広い身幅と豪壮な姿が光忠作品の特徴とされる。
光忠の作は後世の武将に格別に珍重され、特に織田信長は光忠作を約20振収集したとされる。「実休光忠」(本能寺の変で信長とともに焼け身となるも焼け跡から発見され、焼き直しを経て名物として伝わったが現在は所在不明)や「燭台切光忠」(伊達政宗が所持し現・徳川ミュージアム〔茨城県水戸市〕蔵)が著名な遺例である。1313年(正和2年)の「注進物」(諸国の優秀刀工を列挙した記録)において「備前の国の物の勝れて切れたること」と評価されており、光忠の名声が没後数十年を経ても高く維持されていたことが分かる。
光忠の子・長光(ながみつ)は文永11年(1274年)年紀銘作が現存し、その活動が確認できる最古の長船刀工である。長光は父の作風を発展させ、南北朝時代の豪壮な太刀様式への橋渡しとなる作風を展開した。孫の景光(かげみつ)は長船派三代目として「菊水一文字」に代表される豪壮かつ華麗な南北朝期の作風を完成させ、後の観阿弥・世阿弥も長船刀を所用したと伝えられる。
室町時代以降、長船は更に大規模化し、盛光・康光・元重・則光・祐定・清光ら多数の刀工が輩出した。特に応永年間(1394〜1428年)の「応永備前」は切れ味と地鉄の美しさで名高く、戦国大名の需要を一手に引き受けた「末備前(すえびぜん)」の祐定・清光らは量産体制を整え、日本刀の最大産地として君臨した。
備前長船派が日本刀史に果たした役割は計り知れない。第一に、鎌倉中期から室町後期にかけて約400年間にわたり最高品質の刀剣を安定供給し、日本刀の技術的水準を支え続けた。第二に、光忠・長光・景光の鎌倉三代が確立した「備前伝」の様式——地映り・丁子乱れ・柾目交じりの板目肌——は後の五箇伝論でも備前伝として一流派を形成し、現代刀工にも範とされる。第三に、長船を産業集積地として成立させた経営基盤の確立は、後の刀剣産地形成のモデルとなった。
現在、岡山県瀬戸内市長船町には「備前おさふね刀剣の里」として日本刀の資料館と刀工工房が整備されており、光忠以来800年近くにわたる刀剣文化の拠点として継承されている。