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建長年間(1249〜1256年)
相模国鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)
勢力
新藤五国光(相州伝開祖)
北条氏・鎌倉幕府(招聘・庇護者)
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建長年間(1249〜1256年)、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより、1227〜1263年)は諸国の名工を積極的に鎌倉へ招聘した。山城国(京都)の粟田口派から国綱(くにつな)と、備前国の佐二郎国宗(くにむね)が鎌倉に招かれたとされる。国綱は後鳥羽上皇の御番鍛冶制にも参加した粟田口派の名工であり、鎌倉幕府の「鬼丸国綱」所持にも結びつく人物とみられている。
国綱の鎌倉移住が相州伝誕生のきっかけとなった。その子または養子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)は相模国(さがみのくに、現・神奈川県)において単独の刀工として活動し、師から学んだ山城伝の技法を基礎としながら、鎌倉という新天地で独自の刀剣様式を発展させた。「新藤五」は「新たな藤五郎」を意味する通称であり、父や師の系統を受け継ぎつつも新様式を切り開いた意味が込められているとも解される。
国光の生没年は不明だが、現存作の様式から鎌倉中期から後期にかけての刀工と推定される。天下五剣の一つ「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」は父・粟田口国綱の作とされ、皇室の私有財産「御物(ぎょぶつ)」として現在も宮内庁が管理している。
国光が確立した相州伝の最大の技術的特徴は「荒沸出来(あらにえでき)」と呼ばれる刃文にある。従来の山城伝(小沸、澄んだ繊細な刃文)や備前伝(丁子乱れ、匂い系の刃文)とは異なり、相州伝は極めて高温で急冷する焼入れ技法によって、刃文の中に大粒の白い結晶粒(沸・にえ)が荒々しく輝く独特の美観を生み出した。
この技法は刀身が「薄く軽量でありながら強度の高い」刀を実現するためのものでもあった。鎌倉後期から南北朝時代にかけての実戦的需要——特に元寇(1274年・1281年)を契機とした実戦向け刀剣への要求——に応えるべく、従来の技法では達成困難だった剛性と軽量化の両立を相州伝が果たした側面がある。
国光の作風を継承した弟子・藤三郎行光(ゆきみつ)はさらに技法を発展させ、その弟子の正宗(まさむね)が「天下に名工なし正宗以後は」と称されるほどの完成形に到達した。正宗の代表作「観世正宗」「日向正宗」(いずれも国宝)は相州伝の荒沸出来を極限まで洗練させた傑作として、現在も日本刀の最高峰に位置づけられる。
相州伝の確立は単に新様式の刀剣を生み出したにとどまらず、鎌倉という武家政権の中心地で刀剣文化が独自の発展を遂げたことを意味した。
第一に、相州伝は「武士のための刀」という性格を強く持ち、御家人・武士階級の実戦的需要と美意識を体現する刀剣様式として発展した。荒沸出来の激しい美しさは、京都の貴族文化が好む優美さとは対照的な、武人の美意識を反映している。
第二に、北条氏をはじめとする鎌倉幕府の権力者が相州伝の名工を保護・厚遇したことで、刀工が政治権力と深く結びつく構造が生まれた。後鳥羽上皇の御番鍛冶制で始まった「権力者が刀工を囲い込む」慣行は、鎌倉の相州伝においても継承・発展した。
第三に、相州伝の技術——特に荒沸出来と地鉄の強靱化技法——は後の室町・戦国時代の刀剣に広範な影響を与えた。美濃伝・越中伝など後世の地方流派が相州伝の影響を受けて成立したとされており、日本刀技術史における相州伝の位置は基幹的である。
相州伝が生んだ名刀群は「天下五剣」に複数含まれるなど、日本刀の最高峰を占める。 - 鬼丸国綱:天下五剣の一つ。皇室の私有財産「御物」として宮内庁が管理。粟田口国綱の作。 - 観世正宗:国宝。観世家(能楽の宗家)に伝わった正宗の傑作。 - 日向正宗:国宝。正宗の代表作として知られる。 - 不動行光:織田信長の愛刀として知られた行光作。本能寺の変の際に信長が手に取ったとも伝わる。 - 貞宗の各作品:正宗の子または養子・貞宗(さだむね)は刀身彫刻の名人としても知られ、多数の重要文化財が伝来する。
現在、神奈川県鎌倉市には相州伝ゆかりの史跡が残り、正宗の旧跡地とされる鍛冶ヶ谷(現・横浜市栄区)には正宗の子孫を称する刀工が現代も作刀を続けている。