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1864-09-05
関門海峡・下関(長門国)沿岸砲台および馬関(現・山口県下関市)
勢力
長州藩
英米仏蘭4カ国連合艦隊
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文久3年(1863年)5月から元治元年(1864年)9月にかけて、長州藩(現・山口県)の関門海峡制海権をめぐる一連の軍事衝突を「下関戦争(馬関戦争)」と総称する。特に元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)に英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊17隻が長州砲台を一斉に砲撃した事件は、幕末の攘夷運動が列強の近代軍事力に完全に打ちのめされた象徴的事件として歴史に刻まれている。
文久3年(1863年)5月10日(旧暦)、長州藩砲台は関門海峡を航行中のアメリカ商船「ペンブローク号」に砲撃を加えた。続いて5月23日にはフランス通報艦「キャンシャン号」を、5月26日にはオランダ軍艦「メデューサ号」を砲撃した。孝明天皇が幕府に命じた「攘夷決行」を幕府に代わって実行することで、過激な尊王攘夷派を多数抱える長州藩が政治的主導権を握ろうとしたのであった。これらの砲撃は外国に甚大な衝撃を与え、アメリカ艦「ワイオミング号」は7月16日に下関に入港して報復砲撃を行い、フランス艦隊も上陸部隊を派遣して長州砲台を一時占領した。しかし長州は砲台を再建し、関門海峡の封鎖方針を堅持した。
下関戦争に関わった長州藩の志士として特に重要なのが、久坂玄瑞と来島又兵衛である。久坂玄瑞(1840〜1864年)は吉田松陰の最も優秀な門弟のひとりであり、高杉晋作とともに松下村塾の「双璧」と称された。元治元年(1864年)7月の「禁門の変(蛤御門の変)」において長州勢を率いて御所に迫り、戦況が不利になると自刃して果てた。享年25歳であった。来島又兵衛(1817〜1864年)は長州の尊攘過激派の中心人物で、禁門の変において長州軍を率いて戦死した。吉田稔麿・入江九一ら松下村塾の志士たちも、尊攘運動の激流の中で次々と命を落とした。
元治元年(1864年)9月5日(旧暦8月5日)、英・仏・蘭・米の艦船17隻(砲数280門以上)からなる連合艦隊が関門海峡に展開し、長州側の沿岸砲台に対して一斉に砲撃を開始した。長州側の砲台(60門以上)も応戦したが、圧倒的な砲撃力の差は歴然としており、2日間の砲撃で長州の砲台は次々と沈黙した。9月6日、英仏蘭の陸戦隊約2,500名が上陸して砲台を占拠し、大砲をことごとく解体・鹵獲した。長州の抵抗は組織的には9月8日まで続いたが、連合軍の圧倒的な軍事力の前に長州軍は完敗した。連合艦隊側の損害も少なくなく、上陸戦で約70名が死傷した。
連合艦隊が下関を制圧した後、藩当局が交渉担当者として選んだのが高杉晋作(1839〜1867年)であった。高杉は英語もできず、外交経験もなかったが、毅然とした態度で交渉に臨んだ。彼は長州藩独自に賠償を払う権限がないとして問題を幕府に転嫁し、連合艦隊が長州をそれ以上攻撃しないための時間を稼いだ。300万ドルの賠償金要求は、後に幕府が肩代わりすることで決着した(実際には幕府が全額を支払うことはなかった)。高杉晋作はこの交渉の中で連合艦隊の軍艦の巨大さと砲撃力を間近に見て、攘夷の不可能性を確信し、逆に西洋の技術で武装した近代軍隊の必要性を認識した。この体験が慶応元年(1865年)の功山寺挙兵——長州藩内の保守派を打倒した正義派クーデター——につながり、奇兵隊を中核とした近代的軍事改革を推進する原動力となった。
下関戦争における長州藩士の戦いは、日本刀が近代的火砲の前にまったく無力であることを改めて証明した。関門海峡の砲台では大砲が主役であり、藩士たちの帯刀は戦術的には意味をなさなかった。しかし下関戦争に関わった志士たちの多くは、刀剣文化と密接に結びついた人物たちであった。久坂玄瑞は吉田松陰の門下で剣術を学び、師の精神「死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし」を体現するように禁門の変で自刃した。高杉晋作は剣客としても知られ、晩年まで刀を手放さなかった。高杉の愛刀は現在も山口県内に伝わり、幕末の志士文化の遺品として大切に保存されている。
長州を根拠地とした松下村塾の門人たちが帯びた刀の多くは、周防・長門の刀工による作品か、あるいは京・大坂で調達された名刀であったと考えられる。長州藩は関門海峡という海上交通の要衝を支配しており、そこを通る商船・武器船から多くの刀剣・武器が流入した。下関の刀剣市場は幕末を通じて活発であり、志士たちの求めに応じた刀工・刀商が関門海峡沿いに存在した。
下関戦争は薩英戦争と同様に、尊王攘夷運動の終焉を告げる出来事であった。第一に、長州藩が攘夷路線を完全に放棄し、倒幕・尊王路線へと転換したこと。第二に、高杉晋作が功山寺挙兵(慶応元年・1865年)で藩内クーデターを起こし、奇兵隊を主力とした近代的軍隊建設を推進したこと。第三に、薩摩藩との薩長同盟(慶応2年・1866年)成立の土台が作られたこと。
下関戦争の敗北を直視した長州は、「西洋の力で西洋に対抗する」という近代化戦略を採用し、その軍事力をやがて倒幕・明治維新に向けた。下関の砲台が沈黙した1864年の秋から、明治維新(1868年)まではわずか4年であった。現在の下関市には赤間神宮・壇ノ浦古戦場・春帆楼などとともに、下関戦争の記念碑が残り、幕末の攘夷運動が壮絶な敗北のうちに終わった歴史的舞台として保存されている。
長州藩は関門海峡という海上交通の要衝を支配しており、そこを通る商船・武器船から多くの刀剣・武器が流入した。下関の刀剣市場は幕末を通じて活発であり、志士たちの求めに応じた刀工・刀商が関門海峡沿いに存在した。吉田松陰の門下生たちが帯びた刀の多くは、長州・防州(現山口県)の刀工か、京都・大坂で入手された品であったと考えられる。高杉晋作の愛刀として伝わる数振りの刀は、現在も山口県内の博物館・神社に伝わり、幕末志士の刀剣コレクションの一部として大切に保管されている。
また、禁門の変(蛤御門の変)で自刃した久坂玄瑞が最後に手にした刀は、彼の師・吉田松陰の精神を体現した一振りであったと伝えられる。松下村塾の門人たちは、師の死(安政6年・1859年)後も「至誠にして動かさざる者は未だこれ有らざるなり」という言葉を胸に刻み、刀を帯びて尊攘の道を歩んだ。下関戦争はその精神の最終的な軍事的表現であり、同時にその精神が新たな形——近代的な軍事力の建設——へと転化していく契機でもあった。
長州(周防・長門国)は古くから鍛冶の産地として知られており、防州(周防)の刀工は室町・戦国時代を通じて活発な作刀を行った。幕末にかけて尊攘運動が高まると、長州藩内での刀剣需要は急増した。吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞らが研鑽を積んだ萩の松下村塾の近くにも刀工が居を構え、志士たちの求めに応じた実用刀を打ち続けた。奇兵隊が結成された後は、身分に関わらず武装した民兵組織が多数の刀・槍・銃を必要とし、長州の刀工・鍛冶屋はこの需要を満たすべく昼夜の作業を続けた。
下関戦争で連合艦隊に壊滅させられた砲台の兵士たちが帯びていた刀の多くは、こうした周防・長門の鍛冶が生み出した実用刀であったと考えられる。連合艦隊の上陸部隊が砲台を制圧した際、長州側の兵士たちが最後まで刀で抵抗しようとした記録も残っており、幕末の武士が近代的火器と刀を同時に手にしながら戦った最後の局面として、下関戦争の陸上戦は記憶されている。