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慶長14年3月4日〜4月4日(1609年、山川出港から首里城開城まで)
琉球王国・首里城ほか沖縄本島(現・沖縄県那覇市)
勢力
薩摩藩(島津氏)軍
琉球王国軍
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慶長14年(1609年)3月、薩摩藩主・島津家久(忠恒)の命を受けた家老・樺山久高率いる軍勢が、琉球王国へ侵攻した。山川港(現・鹿児島県指宿市)を出港した約3,000の兵は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を経て沖縄本島北部の運天港に上陸し、今帰仁を経て北から南へと進み、首里城へと迫った。4月初旬、首里城は開城し、国王・尚寧は下城して降伏した。薩摩へ連行された尚寧はその後、江戸で将軍・徳川秀忠に謁見し、約2年半後にようやく帰国を許される。この事件を境に、琉球王国は日本(薩摩藩・江戸幕府)と中国(明・清)の双方に従属する「日支両属」という特異な国際的立場を、幕末に至るまで維持することになった。
琉球王国は中世以来、明・清への朝貢を軸とした独自の対外関係を築く一方、薩摩の島津氏とも交易・往来を重ねてきた。両者の関係は、島津氏が琉球からの進貢船・貿易船の往来を保護する立場を担うなど、対立と協調が入り混じる複雑なものであった。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592〜1598年)に際し、島津氏は琉球に対しても兵糧・軍費の負担を求めたが、琉球側の対応は島津氏の期待に十分応えるものではなかったとされる。関ヶ原の戦いを経て徳川家康が江戸幕府を開いた後も、断絶していた明との国交回復にあたって琉球を仲介役として活用する構想があったが、これも実現しなかった。こうした積年の不満に加え、対外交易の利権拡大を狙う島津氏の思惑が重なり、幕府の了解を得たうえで琉球出兵が計画されるに至った。島津氏にとって琉球は古くから附庸国的な関係にあるとの認識も、出兵の名分として用いられたとされる。薩摩国内では朝鮮出兵に続く負担への不満もくすぶっており、対外への武威の発揚という内政的な意味合いも指摘されている。江戸幕府が出兵を黙認・許可した背景には、九州南方の海域における島津氏の勢力を確認しつつ、明との関係修復の糸口を間接的に探る狙いもあったとされる。
慶長14年2月26日、薩摩軍は山川港に集結し、藩主・家久による閲兵を受けた。3月4日寅刻、順風を待って出港した軍勢は約100隻の船団を組み、鉄砲700挺余りを備えて、大将・樺山久高、副将・平田増宗の指揮のもと南下した。3月7日申刻には奄美大島の深江ヶ浦に到達してこれを制圧し、大きな抵抗を受けることなく島内を掌握した。しばらく大島に滞留したのち3月20日に出航すると、22日には徳之島、24日には沖永良部島を経て、25日夕刻過ぎに沖縄本島北部の運天港へ入港した。山川出港からおよそ3週間、島づたいに南下する遠征は、当時の琉球側にまとまった防備がなかったこともあり、大きな戦闘を交えることなく進んだ。奄美・徳之島・沖永良部の各島は、いずれも琉球王国の版図に含まれてはいたものの、王都・首里から離れた辺境であり、独自の防衛体制を持たなかったことが、薩摩軍の急速な南下を許す一因となった。
運天港上陸から2日後の3月27日、薩摩軍は本島北部の要衝・今帰仁城へ到達したが、城はすでに放棄されており、薩摩軍はここに火を放った。今帰仁城はかつて北山王国の王城であり、15世紀の琉球統一後も北部の要としての地位を保っていた城であっただけに、この占領は象徴的な意味合いも持っていたとされる。軍勢はさらに南下を続け、4月1日未刻には那覇港に到達して首里城を包囲する構えを見せた。琉球側との間で和睦の交渉が持たれ、摂政・具志頭王子や三司官らが人質として差し出されることで話がまとまり、翌2日には人質が正式に引き渡された。抵抗を続けることが困難と判断した琉球側は交渉に応じ、まもなく国王・尚寧は首里城から下城し、開城に至った。首里城そのものが激しい攻城戦の舞台となったわけではなく、進軍と威圧のうえで交渉・人質提出を経て開城に至ったという経過は、この戦役の特徴のひとつとして記憶されている。
開城後、尚寧王は薩摩へ連行されることとなり、5月15日に鹿児島へ向けて出発した。翌慶長15年(1610年)、駿府で大御所・徳川家康に、8月28日には江戸城で2代将軍・徳川秀忠に謁見している。琉球国王が将軍・大御所に直接まみえたのはこれが初めてであり、薩摩藩にとっては琉球征服の実績を幕府に示す政治的な意味合いも大きかった。江戸城での謁見は、琉球が異国として来朝したという体裁を伴うものであり、以後、薩摩藩は琉球からの江戸上りを幕府への忠誠を演出する外交儀礼として継続的に利用していくことになる。鹿児島に戻った尚寧は、島津氏を「古来の附庸国」と認めて服属を誓う起請文と、琉球統治の基本方針を定めた掟十五箇条への署名を求められ、これを受け入れている。掟十五箇条は、対外貿易を薩摩の統制下に置くことなど、以後の琉球統治の骨格を定めるものであった。
尚寧が実際に琉球への帰国を許されたのは、連行から約2年半後の慶長16年(1611年)のことであった。この間に薩摩藩は、沖縄本島以南の石高を検地によって8万9千石余りと定め、これを基準に毎年の貢租を島津氏へ課す体制を整えた。那覇には薩摩藩の在番奉行所が置かれ、対外貿易も薩摩の監督下に置かれることとなった。一方で琉球王国そのものは解体されず、尚家による王統も存続を許され、明(後には清)への朝貢関係もそのまま維持された。その結果、以後の琉球は日本(薩摩藩・江戸幕府)と中国の双方に従属する独特の政治的立場——いわゆる「日支両属」体制——を、幕末に至るまで約260年にわたって保つことになる。この体制は、薩摩藩にとっては琉球経由での対中国貿易の実利を確保する仕組みとして機能し、江戸幕府にとっても対外情報を得る窓口としての価値を持ち続けた。琉球王国は名目上の独立を保ちながらも財政的・軍事的には薩摩藩の統制下に置かれるという、二重構造の中で近世を歩むことになる。
琉球王国では、王家である尚家に伝わる宝剣が王権の象徴として重んじられてきた。「千代金丸」「治金丸」「北谷菜切」の三振は、いずれも尚家に代々受け継がれた名刀であり、なかでも治金丸は15世紀にさかのぼる脇差で、16世紀初頭に宮古島の按司から尚真王へ献上されたと伝わる。これらは実戦のための武具というよりも、王権を可視化する儀礼的な宝物として首里城に保持されてきたものであり、現在は那覇市歴史博物館に「琉球国王尚家関係資料」の一部として所蔵され、国宝に指定されている。1609年の侵攻を機に、那覇に薩摩藩の在番奉行所が常設されると、日本本土の武家社会が育んできた帯刀・刀剣の文化が、これまでとは異なる形で琉球社会と接触することになった。もっとも、尚家の宝剣そのものが薩摩によって没収されたとする記録は見当たらず、王統の存続とともに、これらの宝剣も琉球の王権を象徴する宝物として保持され続けたと考えられている。実戦を旨とする薩摩の武家の刀剣文化と、儀礼と王権継承を旨とする琉球の宝剣文化——両者の対照は、この侵攻がもたらした支配関係の一断面を、刀剣という視点から映し出しているといえる。琉球侵攻は、日本刀の歴史においても、その用いられ方の多様さ——実戦の武器としてだけでなく、王権や身分を示す象徴としても機能してきたこと——を改めて浮かび上がらせる出来事であった。