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1863-08-15
鹿児島湾(鹿児島市沿岸)および鹿児島城下
勢力
薩摩藩
イギリス東洋艦隊
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文久3年(1863年)8月15・16日(旧暦7月2・3日)、鹿児島湾において薩摩藩とイギリス東洋艦隊が激突した「薩英戦争」は、幕末日本における攘夷運動と列強の近代軍事力が正面衝突した、最も劇的な事件のひとつである。この戦争の直接の契機は、前年文久2年(1862年)8月に起きた「生麦事件」であった。
文久2年(1862年)8月21日(旧暦)、薩摩藩主後見人・島津久光の行列が東海道・生麦村(現・横浜市鶴見区)を通過した際、乗馬のまま行列を横切ろうとしたイギリス人商人チャールズ・リチャードソンが藩士に斬殺された。他の英国人2名も負傷した。この事件は幕末の攘夷運動が実際に外国人の生命を奪った最初の重大事件となり、英国政府は幕府および薩摩藩に対して多額の賠償金(幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5000ポンド)と犯人の処罰を要求した。幕府は賠償に応じたが、薩摩藩は頑として支払いを拒否し続けた。
文久3年(1863年)7月(旧暦)、オーガスタス・キューパー提督率いるイギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾に現れ、薩摩藩に対して最後通牒を突きつけた。要求は①賠償金の支払い②リチャードソン殺害犯の処罰③謝罪の3点であった。薩摩藩はこの要求を拒絶し、交渉が決裂した。英艦隊は7月2日(旧暦)、薩摩の蒸気船3隻(天佑丸・青鷹丸・白鳳丸)を奇襲的に拿捕した。この挑発的行為に薩摩砲台が即座に砲撃を開始し、戦争が始まった。
薩摩側の砲台は鹿児島湾岸に配置された30門以上の大砲で構成されており、その多くは西洋式の鋳造砲であった。英艦隊は当初の想定以上に激しい抵抗に遭遇した。薩摩砲台の猛烈な砲撃によって、イギリス旗艦「ユーリアラス」は大損傷を受け、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐が砲弾の直撃で戦死するという衝撃的な事態が生じた。英艦隊全体での死者は13名、重傷者は約50名に上った。一方、英艦隊も反撃として鹿児島市街への砲撃を行い、薩摩藩の倉庫・工場・集成館(島津家の近代的工場群)などを焼き払った。薩摩軍が拿捕されていた蒸気船3隻も焼却された。薩摩側の損害は死者5名(一説では7名)、負傷者多数、市街の一部焼失であった。
英艦隊の砲撃によって破壊された「集成館」は、薩摩藩主・島津斉彬が幕末に建設した近代的な産業施設群であり、日本初の洋式工場・製鉄所・ガラス工場などを含む先進的な施設であった。集成館は日本が独自に近代化を模索した象徴的な場所であり、それが西洋の軍艦によって破壊されたという事実は、薩摩の尊攘派に深い衝撃を与えた。しかし皮肉なことに、この破壊こそが薩摩に「攘夷の不可能性」を教える最大の教師となった。集成館は戦後に再建され(現在の尚古集成館)、薩摩はより本格的な西洋技術の導入・近代化へと路線を転換していく。
薩英戦争の結果、薩摩藩は表面上の賠償金(2万5000ポンド)を支払い(実際には幕府から借用した金を流用)、英薩関係は急速に改善された。1864年以降、薩摩は英国から最新式の蒸気艦・武器を購入し、英国軍事顧問団から軍事技術を学んだ。薩摩の指導者たちは、たった7隻の英艦隊がこれほどの被害を与えた事実から、「攘夷は不可能であり、外国の技術を取り入れて富国強兵を実現しなければ日本は亡国を免れない」という結論を引き出した。この認識が後の薩長同盟(1866年)、大政奉還(1867年)、明治維新(1868年)への薩摩の積極的な関与につながっていく。
薩英戦争における薩摩藩士の戦いは、日本刀という兵器の時代的な限界を如実に示した出来事でもある。鹿児島湾の砲撃戦において、薩摩藩士たちの太刀・打刀は何の役にも立たなかった。戦いの主役は大砲であり、蒸気艦であり、西洋式の軍事技術であった。しかしこの認識は、日本刀の価値を否定するものではなかった。薩摩の武士文化は薩摩示現流(自顕流)という独特の剣術を育んでおり、「示現流の初太刀を受けるな」と他藩が警戒するほど強烈な刀法は、薩摩武士の気風そのものであった。薩英戦争の後も、薩摩藩士は刀を帯び、示現流の稽古を続けた。
薩英戦争後に薩摩藩が進めた近代的な軍備増強においても、刀は依然として士族の精神的支柱であり続けた。後の西南戦争(1877年)において、薩摩示現流の剣士たちが示した白兵戦での凄まじい力は、この薩摩刀文化の究極の表れであった。薩英戦争は、日本の刀剣史において「刀が主役だった時代の終わり」ではなく、「刀を持つ武士が近代化への主体となっていく転換点」として位置づけられる。大砲と蒸気艦の前に敗れた薩摩武士たちは、刀を捨てることなく、刀を持ちながら西洋の技術を学び、日本の近代化を牽引する役割を担っていったのである。
小松帯刀は薩英戦争後の英薩交渉の要となった重臣であり、みずから刀を帯びつつ外交実務を担った。また西郷隆盛・大久保利通・五代友厚ら薩摩の志士たちも、薩英戦争の経験を直接の糧として富国強兵の路線を歩んだ。彼らが所持した刀は現在も各地の博物館・寄贈先に伝わっており、幕末薩摩の刀剣文化を今に伝えている。
五代友厚(1836〜1885年)はのちに大阪財界の発展に貢献した実業家として知られるが、薩英戦争では英国艦に拿捕され捕虜となった経験を持つ。この捕虜体験が彼を英国留学・近代経済学修得へと向かわせ、やがて大阪商工会議所(前身)の設立など近代日本の経済基盤構築に尽力させた。刀を帯びたまま英国の蒸気艦の艦内に捕囚されたという、幕末ならではの皮肉な経験が、一人の近代人を育てたのである。
薩摩藩は戦国時代よりポルトガルとの交易が盛んで、種子島にはじめて火縄銃が伝来した地(天文12年・1543年)としても知られる。しかしその一方で、薩摩の刀工も独自の発展を遂げており、薩摩新刀(薩摩伝)と呼ばれる一派の刀剣は、実用性と鋭利さを兼ね備えた独特の様式を持っていた。示現流の剣術と相まって育まれた薩摩の刀文化は、幕末まで脈々と続いた。薩英戦争で戦った薩摩藩士の多くは、こうした薩摩伝の刀を帯びて鹿児島湾岸の砲台に立ったのである。
薩英戦争は短期間の武力衝突に終わったが、その歴史的影響は甚大であった。第一に、薩摩藩の対外政策が攘夷から開国・倒幕へと根本的に転換した。第二に、薩摩とイギリスの接近が、長州藩との薩長同盟成立の遠因となった。第三に、英国が薩摩を幕府に対抗する有力な勢力として評価し、日本の内政に一定の影響を与えるようになった。
鹿児島市内には現在も薩英戦争の砲撃戦の痕跡を伝える史跡が存在し、尚古集成館(集成館跡)は2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として登録されている。砲弾の破片を現在も残す城壁や、英艦が停泊した湾岸は、幕末の激動を今に伝えている。薩英戦争から4年後の明治元年(1868年)には、薩摩藩が主導した戊辰戦争によって徳川幕府は滅亡し、明治維新が成就した。薩英戦争はその出発点に位置する、幕末最大の転換点のひとつであった。
なお、慶応元年(1865年)に竣工した「集成館機械工場」(現存する石造りの工場棟)は、薩英戦争の砲撃で焼失した旧集成館の再建・近代化版であり、現在も尚古集成館の隣に現存している。薩英戦争の砲火が焼いたものを、薩摩人は西洋の技術を使って再建した——この象徴的な事実が、明治維新の本質を端的に物語っている。