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慶長5年9月(1600年)
出羽国長谷堂城(現・山形県山形市)
勢力
上杉軍
最上・伊達連合軍
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慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いが美濃国(現・岐阜県)で繰り広げられていたまさにその同時刻、奥羽の地では上杉景勝と最上義光・伊達政宗の連合軍が長谷堂城をめぐって激闘を展開していた。これが長谷堂合戦である。
長谷堂合戦を理解するためには、その前年にさかのぼる必要がある。慶長4年(1599年)、上杉景勝が徳川家康の上洛命令を拒否したことが発端となった。景勝の重臣・直江兼続は、家康の問い質しに対して「直江状」と呼ばれる強烈な反駁書を送り、天下の物笑いの種となるほどの激烈な言辞で家康を批判した。
この「直江状」は、上杉家が徳川と全面対決を辞さないという意思表示であった。兼続は文武兼備の名将として名高く、その兜の「愛」の一文字は「仁愛」あるいは「愛染明王」への信仰を示すと言われ、戦場においても武士の精神的支柱となる存在であった。
上杉家が会津で戦争準備を進める中、石田三成が西軍を組織して挙兵した。景勝は西軍に与して徳川包囲網の一翼を担うべく、直江兼続に命じて奥羽方面の平定——すなわち徳川に与した最上義光の討伐——を行わせた。
慶長5年(1600年)8月、直江兼続率いる上杉軍約20,000は出羽国(現・山形県)へ侵攻し、畑谷城・上山城・長谷堂城などを順次攻略した。しかし最上義光の本拠に近い長谷堂城では、城将・志村光安を中心とした守備隊が頑強に抵抗した。
長谷堂城は標高約229メートルの丘陵上に築かれた堅城であり、正面からの攻略は容易でなかった。上杉軍は大兵力で包囲しながらも城を落とすことができず、9月に及んでも攻城戦は膠着状態となっていた。
この攻城戦において、上杉軍の兵士たちが携えていた刀は、越後・会津の刀工による実戦向きの打刀が主であった。上杉家は上杉謙信の代から「刀の質」に厳しいことで知られており、兵站として良質な刀の確保に力を入れていた。兼続自身も刀剣の目利きとして知られ、名刀を幾振か所持していたと伝わる。
9月15日、関ヶ原において西軍が大敗し、石田三成が捕縛されるという知らせが上杉軍のもとに届いた。この敗報は長谷堂合戦の戦局を根底から覆した。西軍の敗北により、上杉家は孤立無援となったからである。
直江兼続は即断した。撤退あるのみ、と。しかし退却戦は攻撃以上に難しい。2万の大軍が敵前で撤退するとなれば、崩れた場合は壊滅的な敗北を招く。ここで兼続の統率力が真価を発揮した。
兼続は殿軍(しんがり)を自ら指揮し、追撃してくる最上・伊達連合軍を食い止めながら秩序ある撤退を実行した。この「長谷堂の撤退戦」は、直江兼続の指揮官としての真骨頂を示したとして後世の軍事史家から高く評価されている。刀を抜いて敵と渡り合いながら、2万の軍勢を護って撤退するという任務は、まさに将才の精華であった。
「志駄義秀(しだよしひで)の奮戦」が特に名高い。最上・伊達軍の猛追を食い止めるため、志駄義秀は刀を振るいながら激しく戦い、兼続の撤退を援護した。この殿軍戦での活躍は、長谷堂合戦における最も劇的な刀戦として語り継がれている。
関ヶ原後、上杉景勝は徳川家康に降伏し、会津120万石から米沢30万石への大幅な減封を受け入れた。しかしながら景勝は切腹を命じられることなく、上杉家は存続した。直江兼続もまた家老の地位を保ち、米沢藩の行政・産業の整備に尽力した。
兼続が米沢に残した功績は刀剣文化にも及んでいる。米沢では「米沢打ち」と呼ばれる刀工の系統が育まれ、質実剛健の刀が作られ続けた。兼続自身が刀剣愛好家であったことと、上杉家の武家文化の伝統が相まって、米沢は近世を通じて一定の刀剣産地としての地位を保った。
長谷堂合戦は、関ヶ原という天下分け目の合戦の陰に隠れがちだが、奥羽の地における戦国最後の大合戦として、上杉・最上・伊達という東北の三大勢力が交錯した歴史的に重要な戦いである。そして直江兼続という「愛」の将が見せた壮烈な撤退戦は、武将の真の実力を示すものとして、今日も高く評価されている。