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慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
美濃国厚見郡岐阜城(現・岐阜県岐阜市金華山)
勢力
東軍(徳川方)
西軍(石田方)
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慶長5年(1600年)8月22〜23日、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市、金華山山頂)において繰り広げられた「岐阜城の戦い」は、天下分け目の関ヶ原合戦を1か月足らず後に控えた重要な前哨戦である。東軍(徳川家康方)の福島正則・池田輝政らが率いる大軍が、西軍(石田三成方)の拠点として機能していた岐阜城に攻め込み、わずか2日で城を陥落させた。この素早い勝利は関ヶ原本戦の趨勢を左右する大きな戦略的意味を持ち、また織田信長が「天下布武」の本拠として築き上げた名城が最後の戦場となったという歴史的皮肉においても、戦国末期を象徴する合戦である。
岐阜城の守将・織田秀信(おだひでのぶ)は、戦国史において特別に悲劇的な立場に置かれた人物である。秀信は「三法師(さんぼうし)」の名で知られ、本能寺の変(1582年)で横死した織田信長の嫡孫にあたる。
天正10年(1582年)6月の清洲会議において、三法師は織田家の後継者として担ぎ上げられた。しかしその後の権力闘争の中で、三法師は次第に政治的に疎外されていく。豊臣秀吉が天下を掌握する中で、三法師改め秀信は美濃国岐阜城主として存続したが、実質的な政治的影響力はほとんど持てなかった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原前夜、秀信は石田三成の西軍側に加担することを選んだ。この選択の背景には、徳川家康への反感と、西軍が掲げた「豊臣政権の維持」という大義名分があったとされる。しかし、その決断は岐阜城の滅亡と自身の失脚を招くことになる。祖父・信長が天下取りの拠点として整備した岐阜城が、孫の代で「信長の天下」の終焉を象徴する場として落城することになった歴史の皮肉は、戦国の終幕にふさわしい悲劇的な幕引きである。
岐阜城は、金華山(きんかざん、標高329m)の山頂に位置する山城であり、美濃国の政治・軍事の中心地として機能していた。織田信長がこの城を手に入れ「岐阜」と改名した際(永禄10年・1567年)、「岐阜」の名は中国の古典に由来し「天下統一の出発点」を意味すると言われる。
慶長5年の緊張の中で、岐阜城は東西を結ぶ中山道と東海道の交差点に近い位置にあり、東軍にとっては西進を阻む最重要の障害であった。岐阜城を落とすことは、東軍にとって美濃国の制圧を意味し、尾張・三河から西への進撃路を開くことを意味した。
一方、西軍にとっても岐阜城は大垣城(いしだ三成の主力が入城)への補給・連絡路を守る前衛拠点であった。岐阜城が落ちれば大垣城は包囲される危険があり、関ヶ原への後退を強いられる可能性があった——実際にその通りの展開となる。
8月22日、東軍の諸将は岐阜城に向けて一斉に攻撃を開始した。福島正則の部隊は長良川を渡河して岐阜城下に迫り、池田輝政の部隊は別方面から包囲を図った。岐阜城の城兵は約6,000と伝えられるが、3〜4万の東軍に対して数的劣勢は歴然としていた。
秀信は当初は奮戦したが、城下の防衛ラインが次々と突破され、8月23日には山上の本丸まで攻め込まれた。わずか2日間での落城は、当時の人々に衝撃を与えた。信長が「岐阜」と命名してから約33年、かつて天下統一の象徴であった城が、あっけなく陥落したのである。
織田秀信は降伏し、東軍の将に命を助けられた。その後、秀信は高野山(こうやさん)への退去を命じられ、慶長10年(1605年)に若くして没した。
岐阜城の電撃的な陥落は、関ヶ原合戦(9月15日)の結果に大きく影響した。西軍の主将・石田三成は大垣城に入城して関ヶ原での決戦を期していたが、岐阜城の陥落により東軍の素早い西進を許すことになった。
また、この敗報が他の西軍諸将に心理的な動揺をもたらしたことも否定できない。「三法師=織田信長の血統」という西軍の大義名分のひとつが失われ、西軍の士気に影を落とした可能性がある。
関ヶ原前哨戦として岐阜城の戦いを概観すると、東軍の作戦の特徴は「各個撃破」の徹底にあった。福島正則・池田輝政という豊臣子飼いの武将たちが、家康の「天下取り」のために西軍の出城を次々と落としていく流れは、秀吉没後の天下の帰趨を決する過程でもあった。
岐阜城の戦いの舞台・美濃国(現・岐阜県)は、日本刀の歴史において特別な意味を持つ土地である。「美濃伝(みのでん)」は、備前伝・相州伝・山城伝・大和伝と並ぶ「刀剣五伝」のひとつであり、関や岐阜周辺には多くの刀工が集まった産地であった。
「関孫六(せきまごろく)」として知られる関の刀工群は、室町時代から戦国時代にかけて最高品質の実戦刀を供給し、「美濃の三本杉」の刃文(はもん)で知られる刀工たちが全国の武将に愛された。岐阜城の戦いに参加した東西両軍の将兵が、この地で生産された美濃刀を腰に帯びていた可能性は極めて高い。
織田信長は岐阜城を拠点とした時代に多くの名刀を収集した。信長が岐阜城の主であった時期(1567〜1582年)、名刀「宗三左文字(そうざさもんじ)」「薬研藤四郎(やげんとうしろう)」など多くの名品が岐阜城に集まったとされる。秀信はこれらのうち一部を受け継いだかもしれないが、落城とともにその消息は不明となる。
「不動国行(ふどうくにゆき)」など山城伝・来派の名工の作品は、戦国の合戦を通じて各地の武将の手を転々とした。岐阜城の陥落は、信長の時代に蓄積された美濃の刀剣文化の一断面が歴史の波にのまれていく象徴的な場面でもあった。
東軍の主力として岐阜城攻略を主導した福島正則(ふくしままさのり)と池田輝政(いけだてるまさ)は、ともに豊臣秀吉の「子飼い」武将として知られる猛将である。
福島正則は「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の一人として名を上げた武将であり、その武勇は槍と刀の両方に発揮された。正則が愛用した名槍については伝承があるが、刀についても実戦を重視した頑強な造りの備前刀・美濃刀を好んだと考えられる。
池田輝政は「播磨中納言(はりまちゅうなごん)」と呼ばれた有能な武将であり、姫路城の大改修で知られる。輝政の刀剣への関心は高く、姫路城内には多くの名刀が伝えられた。岐阜城攻略後に輝政が手に入れた刀剣の中に、信長ゆかりの美濃刀が含まれていた可能性も否定できない。
現在の岐阜城(金華山山頂)は昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリートで復元された模擬天守が建っており、岐阜市のシンボルとなっている。本来の天守は関ヶ原の戦い後(1601年)に取り壊され、建材は加納城(岐阜市南部)建設に転用された。
ロープウェイで登ることができる金華山山頂からは、長良川・濃尾平野が一望でき、信長・秀信が見下ろした戦国の風景を偲ぶことができる。城内には信長に関する資料展示があり、岐阜市歴史博物館(金華山麓)では信長・秀信時代の岐阜の歴史と美濃刀剣文化が紹介されている。
岐阜城の戦いは、信長の夢が込められた「岐阜」という地名が持つ壮大な意味と、その城が孫の代で落城するという悲劇的な結末によって、戦国の終焉を最も劇的に体現した合戦のひとつである。刀剣愛好家にとっても、美濃伝の刀工群が活躍した産地を訪れ、信長の天下取りと関ヶ原前夜の緊張を感じながら「美濃刀の故郷」を歩くことは、日本刀の歴史を肌で理解する最良の体験のひとつとなるだろう。