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慶長5年9月17日〜18日(1600年)
近江国坂田郡佐和山城(現・滋賀県彦根市佐和山町)
勢力
東軍(徳川方)
西軍(石田方)
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慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で西軍が総崩れとなり、石田三成は敗走した。三成の居城・佐和山城は、東軍にとって次なる標的となった。わずか2日後の9月17日、徳川方の大軍が佐和山城下に押し寄せる。城を守っていたのは、三成の父・石田正継と兄・石田正澄であった。この落城劇は、関ヶ原本戦そのものと並んで、豊臣政権下で権勢を誇った石田家の栄華がいかに脆く崩れ去ったかを物語る象徴的な事件として、今日まで語り継がれている。
石田三成は近江国出身で、豊臣秀吉に見出されて奉行として頭角を現し、太閤検地や朝鮮出兵の兵站など、豊臣政権の実務を支える官僚として辣腕を振るった。武功よりも行政手腕に優れた「文治派」の代表格とされる一方、秀吉没後は徳川家康の専横に危機感を強め、慶長5年(1600年)、毛利輝元を総大将に擁立して家康打倒の兵を挙げた。これが関ヶ原の戦いへとつながる西軍挙兵である。三成は自ら西軍の実質的な指揮を執り、9月15日の本戦に臨んだが、当初は西軍優勢とも見られた戦況の中、松尾山に布陣していた小早川秀秋が開戦から数時間後に東軍へ寝返り、これに連鎖する形で脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保ら諸将も次々と東軍側についた。この一斉離反により西軍の陣形は瓦解し、本戦はわずか半日足らずで東軍の圧勝に終わった。
徳川家康にとって、この勝利を確実な政権基盤へとつなげるためには、西軍首謀者たちの本拠地を速やかに制圧し、抵抗の芽を完全に摘み取ることが不可欠であった。とりわけ挙兵の中心人物であった三成の居城・佐和山城は、他の諸大名に対して家康への叛意がいかなる末路を招くかを示す象徴的な標的でもあった。小早川秀秋ら本戦で寝返った諸将を先鋒として佐和山攻めに投入したのは、彼らに東軍への忠誠を実績として示させる意味合いもあったと考えられている。
佐和山城は近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)に位置し、南北朝時代以前に築かれた古城であったが、天正18年(1590年)以降、豊臣政権の奉行として台頭した石田三成が大改修を加え、居城として整備した。本丸・二の丸・三の丸を階段状に配した壮大な縄張りを誇り、東山道と琵琶湖水運を押さえる交通の要衝に位置していたことから、三成は年貢米の管理や情報収集の拠点としてもこの城を活用したと考えられている。「治部少(三成の官職名)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という当時の落首は、三成の器量に不釣り合いなほど立派な家臣と城という意味であり、三成の権勢と佐和山城の堅固さを同時に物語る逸話として広く知られている。三成自身は西軍の実質的な主導者として関ヶ原本戦に出陣していたため、佐和山城には父・正継、兄・正澄をはじめとする一族と、留守を預かるわずかな兵力しか残っていなかった。三成の子や妻子もこの城内にとどまっていたと伝わる。
9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、徳川家康は諸将に石田家の本拠地・佐和山城の攻略を命じた。小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保——いずれも関ヶ原の最終盤で西軍から東軍へ寝返った将たち——に加え、徳川四天王の一人である井伊直政、豊臣恩顧ながら早くから家康に接近していた田中吉政らも加わり、総勢およそ1万5000の大軍が佐和山へと進軍した。関ヶ原の戦場から佐和山城までは一日ほどの距離であり、東軍諸将は勝利の余勢を駆って即座に転進したため、城方には態勢を立て直す猶予がほとんど与えられなかった。関ヶ原からの敗報が届いたばかりの佐和山城内は混乱の極みにあり、城下の防備を固める時間もほとんど残されていなかった。三成不在の城には、他国衆から募った援兵も含めてかき集められた兵力しかなく、東軍との兵力差は歴然としていた。
9月17日朝、東軍は佐和山城を包囲し、総攻撃を開始した。小早川隊・脇坂隊は大手門へ、田中吉政隊は搦手門へと攻め寄せた。城を守る石田正継は本丸に拠って指揮を執り、正澄は三の丸で大坂方からの援軍とともに応戦した。しかし守備兵力はわずか2800ほどにすぎず、1万5000の東軍を長期にわたって支えることは到底不可能であった。激しい攻防の末、翌9月18日、ついに佐和山城は落城した。落城の過程では、東軍に内応する者が城内に出たとも伝えられ、防衛線の崩壊を早めたとされる。
落城に際し、石田正継・正澄兄弟をはじめ、正継の妻、三成の妻子の多くが自刃、あるいは討死を遂げたと伝わる。三成が権力の絶頂で築き上げた本拠地は、わずか2日間の攻防で灰燼に帰し、石田一族はほぼ壊滅した。三成自身は関ヶ原からの逃走の途上にあり、この落城の報を城から離れた場所で聞くこととなった。三成は逃亡の末に捕縛され、同年10月1日、京都六条河原で処刑されている。父と兄が城を枕に討死する中、三成一人が敗軍の将として生き延び、後日処刑されるという展開は、石田家の悲劇を象徴する逸話として語り継がれてきた。
佐和山城の戦いは、豊臣政権下における刀剣行政とも深く結びついている。三成は豊臣秀吉の奉行として天正16年(1588年)の刀狩令の実施を取り仕切った人物の一人であり、農民から武具を没収して兵農分離を徹底する政策の中枢にいた。皮肉にも、その三成自身の居城は、武士同士の刀槍による攻城戦によって落とされることとなった。佐和山城内には奉行として集めた名刀・武具の類が多く収蔵されていたとされるが、落城とともにその多くが散逸したと伝わる。父・正継も刀剣の鑑識に通じた人物であったとされ、石田家には相応の刀剣コレクションが存在したと考えられている。関ヶ原の敗北によって没収された石田家の財産の中には、多数の刀剣が含まれていたことが当時の記録からうかがえる。三成の家臣として先の落首にも名を残した島左近は、勇猛な武将として知られ、関ヶ原本戦で自ら槍を振るって奮戦したと伝わる人物であり、佐和山城に集った石田家中の武人たちの気風を象徴する存在でもあった。
佐和山城はこの落城後、徳川方によって接収され、井伊直政が城主として入った。しかし直政は「三成の居城をそのまま用いるのは縁起が悪い」として佐和山城を嫌ったとも言われ、程なくして彦根山に新たな城(彦根城)の築城を開始して移転したため、佐和山城は廃城となった。彦根城の築城にあたっては佐和山城の建材や石垣の一部が転用されたという伝承も残っており、佐和山城の記憶は形を変えて彦根の地に受け継がれたとも言える。今日、佐和山城跡には石垣や曲輪の一部がわずかに残るのみであるが、三成の悲劇的な最期と結びついた古戦場として、彦根市の重要な史跡となっている。山頂には三成を偲ぶ石碑が建てられ、登山道を訪れる歴史愛好家も多い。石田正継・正澄兄弟の奮戦と最期は、主君である三成への忠義の象徴として、地元では今なお語り継がれている。佐和山城の落城劇は、関ヶ原本戦とあわせて語られることの多い田辺城・大津城といった同時期の攻城戦とともに、豊臣政権の終焉と徳川の世の到来を告げる一連の出来事の一幕として、近江・北陸の戦国史に刻まれている。