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慶応2年6月7日〜8月下旬(1866年7月)
長州藩(現・山口県)周辺四方面(小倉口・石州口・大島口・芸州口)
勢力
幕府征討軍(諸藩連合)
長州藩軍
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慶応2年(1866年)の夏、日本の歴史は大きな曲がり角を迎えた。徳川幕府が全国30余藩に号令して長州藩を討伐しようとした「第二次長州征伐」は、幕府の完全な軍事的敗北に終わり、翌年の明治維新への決定的な転換点となった。
元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩は朝廷に対して兵を向けた「朝敵」となった。同年の第一次長州征伐では諸藩の圧力に屈した長州が恭順し、一応の決着がついた。しかし長州藩内部では正義派(倒幕強硬派)が復権し、第一次征伐を主導した武備恭順派(保守派)を討って実権を掌握した(長州藩内戦)。
この状況に脅威を感じた幕府は再び長州征討を計画した。しかし今度の状況は全く異なっていた。慶応2年(1866年)1月、薩摩藩と長州藩は坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により「薩長同盟」を締結した。薩摩は長州に対する幕府征討に協力しないことを約束し、さらに兵器(ミニエー銃など)の供給も行った。これにより幕府の孤立が確定した。
長州の軍事力の中核となったのは、高杉晋作(1839〜1867)が組織した「奇兵隊」をはじめとする諸隊だった。文久3年(1863年)に高杉が創設した奇兵隊は、それまでの武士身分に限られた軍制を覆し、農民・商人・浪人など身分を問わず優秀な者を採用した。これは日本の軍制史上画期的な改革であり、明治以降の国民皆兵制度(徴兵令)の先駆けとなった。
奇兵隊は単なる混成部隊ではなく、規律と実戦的訓練を重視した近代的軍隊の萌芽だった。洋式小銃(ミニエー銃・エンフィールド銃)を装備し、従来の日本刀・槍中心の戦闘に加えて、銃剣術・砲術も習得していた。高杉晋作の革命的な軍制改革が、幕府軍に対する兵力の質的優位をもたらした。
慶応2年6月7日、幕府軍は四方面から長州を攻めた。
大島口(瀬戸内海・大島攻撃)では、幕府艦隊が大島を砲撃して占領したが、高杉晋作が直接指揮する奇兵隊が夜間奇襲で幕府艦隊に斬り込み、高杉は敵艦に乗り込んで奮戦した。幕府軍は大島から撤退を余儀なくされた。
芸州口(現・広島方面)では、幕府軍が佐伯・小瀬川を越えて侵攻を試みたが、長州軍の小銃部隊が地形を活かして幕府軍を撃退した。
石州口(現・島根方面)では、幕府軍の益田攻撃が長州の浜田城攻略によって裏をかかれ、幕府の石州代官所が占領された。
最大の激戦は小倉口(現・北九州市門司付近)だった。小倉藩(幕府側)と長州が激突し、当初は小倉藩優勢だったが、8月以降に長州が大反撃を開始。小倉城が自焼放棄され(8月1日)、幕府諸藩の撤退が続いた。
四方面全てで苦境に立たされた幕府に、7月20日、決定的な打撃が加わった。大坂城で指揮を執っていた将軍・徳川家茂が脚気衝心(心臓病)により急死したのである。享年21歳。
将軍の死は戦争継続の名分を奪い、後継の一橋慶喜(徳川慶喜)は9月に休戦を宣言した。しかし軍事的事実は明白だった——幕府は長州一藩に完敗したのである。
第二次長州征伐は、日本刀文化史においても転換点を画す事件である。奇兵隊の戦闘を通じて、日本刀は近代小銃の補助武器へと位置づけが変化した。奇兵隊の主力武装は洋式小銃であり、白兵戦の際に日本刀・銃剣が使われたが、決定的な戦力は火力だった。
しかし同時に、高杉晋作・山縣有朋・桂小五郎といった奇兵隊の指導者たちは、いずれも優れた剣士でもあった。高杉晋作が愛用した刀(薩摩伝の刀という説もある)は、彼の革命的行動の精神的支柱だった。山縣有朋も剣術の修業を積んでおり、後に明治陸軍の中枢となる。
奇兵隊の戦士たちが腰に差した刀は、「武士の魂」から「普通の人々の闘志」を象徴するものへと意味を変えつつあった。これが明治の廃刀令(1876年)に向けての文化的準備期間でもあった。
第二次長州征伐の失敗は、幕府の統治能力の終焉を象徴した。敗北後、新将軍・徳川慶喜は幕政改革を試みたが、時流を変えることはできなかった。慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還を上奏し、12月9日の王政復古の大号令によって徳川幕府は名実ともに終焉した。
坂本龍馬が仲介した薩長同盟——その連鎖の中に第二次長州征伐がある。幕末の刀が最後の政治的意志を表現した時代の、最後の大規模軍事決戦として、第二次長州征伐は日本刀と近代の狭間に位置する歴史的事件だった。