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万延元年(1860年)頃、近藤勇が虎徹入手を志したとされる時期を起点とする通説
江戸・京都(現・東京都、京都府)
勢力
長曽祢興里・虎徹(刀工、故人)
近藤勇・新選組(幕末の購入・使用側)
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長曽祢興里入道乕徹(ながそねおきさと にゅうどう こてつ、通称「虎徹」)は、江戸前期を代表する刀工の一人であり、その作は「最上大業物」に格付けされるほどの切れ味で知られた。幕末、新選組局長・近藤勇がこの虎徹を愛刀としたという逸話は広く知られるが、近藤の所持した刀が果たして真作であったか否かをめぐっては、当時から現代に至るまで論争が続いている。
長曽祢興里は、近江国長曽祢村(現・滋賀県長浜市域とされる)の出身で、もとは甲冑師として活動していた人物である。50歳を過ぎてから刀鍛冶に転身し、江戸に出て作刀を始めたという異色の経歴を持つ。甲冑師としての鉄の扱いの経験が刀剣製作に活かされたとされ、その作は地鉄の美しさと、鋭い切れ味を両立させた名品として高く評価された。虎徹の作刀期間は短かったにもかかわらず、後世「最上大業物」(最高ランクの実戦刀剣格付け)に列せられるほどの評価を確立し、江戸時代を通じて武士階級から絶大な人気を集めた。
甲冑師から刀鍛冶への転身という経歴は、当時としても異色であった。江戸時代初期は太平の世が訪れつつある一方、まだ甲冑の需要が残る過渡期であり、興里も当初は甲冑師として生計を立てていたと考えられている。しかし刀剣需要の変化や自身の技術的関心から、壮年を過ぎてから作刀の道に転じ、江戸に出て虎徹の号を用いるようになった。短い作刀期間にもかかわらず高い技術水準に到達できた背景には、金属加工全般に通じていた甲冑師としての下地があったとする見方が有力である。
この人気の高さゆえに、虎徹は生前から偽物・偽銘が多数出回る刀工としても知られ、「虎徹を見たら偽物と思え」という格言めいた言葉が刀剣界に伝わるほど、贋作の横行が著しかった。
虎徹の切れ味を伝える逸話として「石灯籠切り虎徹」の話が知られている。庭木の太い松の枝を試し斬りした際、刃がそのまま隣に置かれていた石灯籠まで両断したと伝わるもので、真偽はともかく、虎徹の切れ味に対する当時の評価の高さを象徴する逸話として語り継がれている。こうした逸話の蓄積が、虎徹という名前そのものにブランド的な価値を付与し、後の偽銘横行の土壌ともなった。
新選組局長・近藤勇が虎徹を愛刀としていたという話は、近藤自身の書簡や周辺の証言によって伝えられてきた。近藤は上洛に際して名刀を求め、刀剣商に虎徹の入手を依頼したとされる。しかし当時すでに虎徹の真作は極めて希少であり入手が困難であったため、刀剣商が代わりに、源清麿本人の作、あるいは無銘の刀に虎徹の銘を偽って切り、近藤に渡したという説が広く流布している。
近藤自身がこの刀を真作と信じていたか、あるいは偽物と知りつつ「虎徹」の名声にあやかって佩用していたかは判然としない。いずれにせよ、近藤は生涯にわたってこの刀を「虎徹」として大切に扱い、池田屋事件をはじめとする新選組の主要な活動の場面でこれを帯びていたと伝えられる。
近藤の虎徹をめぐる真贋論争には複数の説が存在する。第一の説は、近藤の刀が源清麿(幕末を代表する刀工、「四谷正宗」とも称された)本人の作であり、その銘を消して虎徹銘が偽刻されたとするものである。この説は、後年の武道家による伝聞・口伝を根拠とするもので、清麿の作風と近藤の刀に関する伝承上の記述が近いことも傍証とされる。第二の説は、無銘の刀に後から虎徹銘を切ったとする説で、幕末には偽銘専門の職人が存在し、虎徹銘の偽作が大量に出回っていたことと符合する。第三に、近藤が本物の虎徹を所持していたとする説も一部の研究者・愛好家の間では根強く主張されているが、決定的な物証には乏しい。
近藤の佩用した実物の刀そのものが現存を確認されていない、あるいは所在が不明であるため、科学的な鑑定による最終決着は現時点でついていない。このため、真贋論争は史料の解釈と伝承の信頼性評価に依存する形で今も続いている。
近藤の虎徹をめぐる逸話は、単なる一個人の刀の真贋問題にとどまらず、幕末期における刀剣売買市場の実態を象徴する事例として重要である。幕末は尊皇攘夷運動の高まりとともに武士・志士階級の刀剣需要が急増した時期であり、それに伴い有名刀工の銘を偽った偽作が大量に流通した。虎徹はその筆頭格として狙われた刀工であり、近藤のような著名人物が「虎徹」を求めたこと自体が、当時の刀剣ブランド信仰と偽銘商法の実態を物語っている。
近藤以外にも新選組隊士の間では名刀を求める気風が強く、土方歳三をはじめとする幹部たちもそれぞれ由緒ある刀剣を差料としたと伝わる。こうした新選組隊士たちの刀剣への強いこだわりは、単なる実戦的な必要性だけでなく、武士としての格式・自己演出という側面も色濃く反映していたとみられる。近藤が「虎徹」の名を求めたこと自体、彼が新選組という組織の長として、名刀を帯びることによる象徴的な権威付けを重視していたことを示唆している。
新選組は本来、農民出身者や町人出身者を含む混成部隊であり、近藤自身も武蔵国多摩郡の農家出身であった。出自において譜代の武士ではない近藤たちが、京都という武家社会の中心地で活動するにあたり、名刀を帯びることは自らの武士としての格式を対外的に補強する意味合いを持っていたと考えられる。「虎徹」という当代随一の名工の名を持つ刀を求めたことは、単なる実用の武器選びを超えた、身分的な自己証明の試みでもあった。
近藤勇と虎徹の逸話は、明治以降の新選組関連の小説・映画・漫画・ドラマにおいて繰り返し取り上げられ、近藤勇という人物像を語る上で欠かせない要素として定着した。史実としての真贋が未確定であるにもかかわらず、「近藤勇の虎徹」という組み合わせは日本刀と幕末史を結びつける象徴的なエピソードとして、現代の刀剣文化・歴史愛好家の間で広く語り継がれている。この逸話は、日本刀が単なる実用の武器を超えて、所有者の権威・信念・物語性を担う存在として機能してきたことを示す好例でもある。