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万延元年3月3日(1860年3月24日)
武蔵国江戸・桜田門外(現・東京都千代田区)
勢力
水戸・薩摩の浪士(暗殺実行犯)
彦根藩(井伊大老の護衛)
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万延元年(1860年)3月3日、早朝の江戸城桜田門外(現・東京都千代田区)。雪の降り積もった静謐な朝に、日本史上最も有名な政治的暗殺のひとつが決行された。幕府の最高権力者・大老(たいろう)井伊直弼(いい なおすけ)の行列が水戸・薩摩の脱藩浪士18名の刺客によって急襲され、直弼は暗殺された。この「桜田門外の変」は、江戸幕府の権威が取り返しのなく傷ついた瞬間であり、明治維新へのカウントダウンが始まった歴史的事件である。
1858年(安政5年)、井伊直弼は幕府の大老として日米修好通商条約に調印した。この条約は天皇の勅許(許可)を得ないまま締結されたため、「勅許なき条約調印」として朝廷・尊攘派(尊王攘夷派)から激しく非難された。
直弼はこの批判を力で封じ込めようとし、「安政の大獄(あんせいのたいごく、1858〜1859年)」を断行した。尊攘派・反幕府的立場の大名・公家・志士100名以上が処罰され、吉田松陰・橋本左内ら著名な志士が処刑された。
この強権政治に対する水戸藩(徳川御三家の一つ)の反発は特に激しかった。水戸藩は「尊王」(天皇の権威を尊重する)の伝統が強く、直弼の行動を「朝廷を蔑ろにする逆賊」と捉えていた。水戸藩士の一部が脱藩し、直弼の暗殺を計画した。
暗殺を計画したのは、水戸の元藩士を中心とする脱藩浪士の集団だった。主要な計画者は関鉄之介(せき てつのすけ)であり、薩摩藩脱藩の有村次左衛門(ありむら じざえもん)も参加した。計画は数ヶ月にわたって準備され、決行の日として3月3日(桃の節句、雛祭り)が選ばれた——この日は江戸城では節句の行事があり、大老の護衛が礼装(甲冑ではなく正式な着物)であることが見込まれていた。
当日の江戸は雪であった。彦根藩の護衛約60名は、雪による寒さから刀の柄(つか)に袋をかけて(「袋刀」の状態)行進していた。これが裏目に出た——いざという時に刀が素早く抜けない状態になっていたのである。
浪士たちは桜田門外で行列を急襲した。有村次左衛門がまず直弼の駕籠(かご)に突撃し、籠の中の直弼を斬り付けた。護衛の彦根藩士たちは袋をかけた刀に手こずりながら応戦したが、混乱の中で直弼は殺害された。直弼の首は有村次左衛門によって奪われた(有村自身も重傷を負い、その後自害)。
実行犯のうち、現場で死亡した者・重傷で自害した者が多く、生き残った者もその後に処刑された。
桜田門外の変は、日本刀の実戦的使用という観点から見ても興味深い事件である。幕末の志士たちが実際に使用した刀の多くは、当時の刀剣文化を反映している。
幕末の主要な刀工として「固山宗次(こやま むねつぐ)」「清麿(きよまろ)」こと源清麿、「長曾祢虎徹(ながそね こてつ)」などの名が知られる。これらの刀工が作った刀は、江戸後期〜幕末の実戦を想定した強靭な刀剣として、志士たちに珍重された。
また、水戸藩は藩独自の刀剣文化を持っており、「水戸正宗」「水戸徳川家の名刀」として知られる刀剣が伝来している。水戸藩士が使用した刀には、「尊皇」の精神が込められたものも多かった。
「固山宗次」作の刀は、幕末の剣客・道場の間で特に評価が高かった。固山宗次は江戸後期を代表する刀工であり、その作品は実戦性と美術性を兼ね備えていた。
桜田門外の変で使用された刀については、実行犯が使用した「薄刀(うすがたな)」が護衛の刀を受けながら次々に折れたという伝聞もあり、当日の乱戦の激しさを示している。雪の中での白刃戦という特殊な状況は、刀の性能が直接生死を分けた場面でもあった。
桜田門外の変が単なる暗殺事件を超えた意味を持つのは、それが「幕府の最高権力者が公道で殺された」という象徴性にある。
江戸時代を通じて、幕府の権威は「治安の保証」「刀の秩序の維持」によって支えられていた。将軍の膝元・江戸の真っ只中で、大老という最高実力者が18名の浪士に殺されたという事実は、幕府が「治安を守る能力を失った」ことを天下に示した。
この事件以後、幕末の政治的暗殺が激増する。池田屋事件(1864年)、坂本龍馬暗殺(1867年)、そして戊辰戦争へ——桜田門外の変はその連鎖の起点である。
「攘夷か開国か」「倒幕か佐幕か」という幕末の政治的対立は、刀を手にした志士たちの行動によって決着への道を歩む。桜田門外に降り積もった雪は、260年の泰平を誇った江戸幕府が雪解けのように崩れていく予兆だったのかもしれない。