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元治元年(1864年)7月〜11月
長州藩(現・山口県)
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元治元年(1864年)7月から11月(旧暦)にかけて、江戸幕府は長州藩に対する大規模な軍事討伐を発動した。これを「第一次長州征伐」(あるいは「元治の征伐」)と呼ぶ。36藩・約15万の兵力を動員したこの征討は、幕末史における幕府権力の最後の大きな軍事的示威であったが、実際には一戦も交えることなく、西郷隆盛の巧みな調停によって無血のうちに終結した。
禁門の変と征伐の背景
征伐の直接の引き金となったのは、元治元年7月19日(1864年8月20日)に勃発した「禁門の変」(蛤御門の変)である。長州藩の急進派(尊攘激派)は、前年の文久3年(1863年)の政変(八月十八日の政変)で京都を追われた後も雪辱を誓っており、久坂玄瑞・来島又兵衛らが率いる長州兵が入京して、薩摩・会津の守る御所の蛤御門に向けて発砲した。御所への砲撃は朝廷への大逆であり、長州軍は会津・薩摩・桑名連合に撃退された。久坂玄瑞・来島又兵衛はともに戦死し、長州の名声は地に墜ちた。
禁門の変の翌々日、朝廷は正式に長州藩を「朝敵」と宣告した。幕府はこの機をとらえ、徳川家茂を征討軍の最高司令官(総督)に任命し、各藩に参加を命じた。征伐の最終的な参加藩は36藩、兵力は約15万と伝わる。この動員規模は江戸時代を通じて空前のものであり、幕府が諸藩を従える権威の象徴であった。
四国艦隊下関砲撃との連動
第一次長州征伐が進行する中、同じ元治元年(1864年)8月には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が、長州が前年に行った外国船砲撃(下関戦争・文久3年の攘夷実行)の報復として下関を砲撃した。この「四国艦隊下関砲撃事件」(馬関戦争)によって長州の砲台はことごとく破壊され、長州は賠償金300万ドル(後に幕府が肩代わり)の支払いを余儀なくされた。内外から挟撃される格好となった長州は、軍事的に著しく弱体化した。
西郷隆盛の調停と無血終結
幕府の征討軍が長州に迫る中、征討参謀として参加した薩摩藩の西郷隆盛は、長州藩内の恭順派(保守派・俗論派)に着目した。長州藩内では、禁門の変の敗北を受けて尊攘激派(正義派)に対する反動が起き、恭順派(椋梨藤太らが主導する俗論派)が主導権を握りつつあった。西郷は征討を実際に行わずに済む方策として、長州側の「謝罪・恭順」という形での解決を模索した。
交渉の結果、長州藩は幕府の要求に従い、(1)禁門の変の首謀者とされた三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の処刑、(2)四参謀(宍戸左馬之介・竹内正兵衛・中村九郎・佐久間佐兵衛)の処刑、(3)山口の五卿(尊攘派の公家)の他藩への移送、の三条件を受け入れた。元治元年11月(1864年12月)、長州は幕府への恭順を表明し、征討軍は撤退した。
しかし、この無血終結は長州藩の急進派を真に屈服させたわけではなかった。俗論派によって粛清・弾圧されていた正義派の残党は、高杉晋作が元治2年(1865年)1月に奇兵隊を率いて「功山寺挙兵」を決行したことを契機に巻き返しを図り、同年春には長州藩内の主導権を取り戻した。以後、長州は薩摩藩との同盟(薩長同盟、1866年)を締結し、幕府の第二次長州征伐(1866年)に対して公然と軍事的抵抗を行うことになる。
刀剣文化への影響と幕末の軍事変容
第一次長州征伐は、幕末における刀剣と近代兵器の共存という歴史的転換期を象徴する事件でもある。参加各藩の武士は依然として大小(刀・脇差)を帯刀して出陣したが、主力兵器として火縄銃に代わり洋式銃(ミニエー銃・ゲベール銃)が急速に普及しており、武士の「刀」は象徴的・儀礼的側面を増していた。長州藩の奇兵隊が庶民・農民からも兵を募り、洋式訓練と洋式銃を採用していた事実は、武士・刀を中心とした軍事体制が崩れつつあることを示していた。
征伐に際して幕府軍が見せた巨大な動員力は、皮肉にも幕府権威の実質的な空洞化を加速した。西郷隆盛の調停という形での「無血終結」は、幕府が長州を軍事的に屈服させたのではなく、あくまで政治的な妥協によって事態を収拾したに過ぎないことを各藩の目に明らかにした。このことは薩摩を含む諸藩の間で「幕府は軍事的に頼りにならない」という認識を広め、やがて薩長同盟・第二次長州征伐・大政奉還・戊辰戦争へと続く幕末の激動を準備することになった。
第一次長州征伐は、日本史において「大規模動員されながら一戦も交えなかった征伐」として記憶される。しかし、この無血の幕切れこそが幕府の権威失墜を象徴し、刀剣を帯びた武士の時代から近代軍事国家への転換を決定づける分岐点の一つとなった。