
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
1867-11-15
京都府京都市中京区・近江屋(河原町通蛸薬師付近)
勢力
被害者
暗殺者(諸説)
約4分で読めます
慶応3年(1867年)11月15日——大政奉還(10月14日)の成功から僅か一ヶ月余、坂本龍馬(さかもとりょうま)は京都河原町の醤油商・近江屋(一説に酢屋)の二階において暗殺された。享年33。土佐藩脱藩の浪士から薩長同盟の立役者へと駆け上がり、武力による倒幕ではなく「無血革命」を構想した稀代の策士は、自らが描いた新時代の夜明けを見届けることなく世を去った。
天保6年(1835年)11月15日、土佐国(現・高知県)の郷士の家に生まれた坂本龍馬は、江戸で北辰一刀流を学び、安政5年(1858年)には師・千葉定吉の道場で塾頭を務めるほどの腕前を持っていた。文久2年(1862年)、土佐藩を脱藩した龍馬は勝海舟の弟子となり海軍操練所で学んだ。
薩摩藩・長州藩・土佐藩の間を仲介しながら活動した龍馬の最大の功績は、慶応2年(1866年)1月21日の「薩長同盟」の成立である。水と油のように対立していた薩摩(西郷隆盛・大久保利通)と長州(木戸孝允・高杉晋作)を結びつけたこの同盟は、後の明治維新を決定づける政治的礎となった。
さらに慶応3年(1867年)6月、龍馬は「船中八策(せんちゅうはっさく)」を起草した。大政奉還・議会設立・不平等条約改正・新通貨制度の設立等を盛り込んだ政治改革の青写真であり、後の「五箇条の御誓文」に影響を与えたとも言われる。同年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を決断し、将軍が朝廷に政権を返上した。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜、坂本龍馬は近江屋の二階に中岡慎太郎とともに潜伏していた。当夜、数名の男が「同志の者」と称して訪問し、突然斬りかかった。龍馬は額・頭部・右腕・頸部に重傷を負い、まもなく絶命した。中岡慎太郎も重傷を負い、二日後の11月17日に死亡した。
室内には龍馬の愛用していた拳銃(S&Wリボルバー)が残されており、龍馬が銃を使う間もなく斬り付けられたことを示している。龍馬の頭部に加えられた一撃は非常に高い剣技のものであったとも記録されている。
暗殺に使われた刀については、現場の傷の形状・目撃証言などから様々な分析がなされてきた。龍馬の傷は「打刀」によるものと「脇差」によるものが混在していたとも伝わる。複数の刺客が入れ替わり斬りつけたとすれば、大小2本の刀が使用された可能性がある。
犯人の正体については以下の諸説が今日も争われている。
第一の有力説は「京都見廻組説」である。明治時代になって元見廻組隊士・今井信郎が「自分たちが暗殺した」と証言したことから、渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・今井信郎らが実行犯とされてきた。しかし今井の証言には矛盾点も多く完全な証明には至っていない。
第二の説は「新選組説」である。斬撃の技術的水準から「新選組の剣術家」を想定する説で、近藤勇・土方歳三の配下が関与したとする見方もある。ただし新選組側の記録には明確な関与の証拠が見当たらない。
第三の説は「薩摩藩説」である。大政奉還によって武力倒幕路線が一時停止したことに不満を持つ薩摩強硬派が龍馬を邪魔な存在として消したとする説。近年再評価が進んでいる。
第四の説は「紀州藩説」である。慶応3年4月に龍馬の海援隊の船「いろは丸」が紀州藩船と衝突して沈没した事件(いろは丸事件)で、龍馬が紀州藩から約8万両の賠償金を引き出したことへの報復とする説。真相は今日も闇の中である。
坂本龍馬は北辰一刀流の使い手でありながら、幕末の動乱期に積極的に西洋の拳銃を携帯した人物としても知られる。文久2年(1862年)の寺田屋事件以来(特に1866年の第二次寺田屋事件では拳銃で幕吏から逃れた)、龍馬は常にS&Wリボルバーを携帯するようになった。これは龍馬の思想を体現していた——「刀の時代は終わり、これからは銃と外交の時代だ」という認識である。それだけに、近江屋の事件で拳銃を抜く間もなく刀で斬り伏せられたことは運命の皮肉と言わざるを得ない。
坂本龍馬の名は生前よりも死後に大きく広まった。明治以降「維新の英雄」として顕彰され、昭和以降は司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1962〜1966年)によって国民的英雄の地位を不動のものとした。高知県・桂浜の龍馬像(1928年建立)は今も多くの観光客が訪れる。
龍馬が暗殺された11月15日は奇しくも彼の誕生日と同日である(天保6年11月15日生)。この一致は後世の人々に深い印象を与え、龍馬伝説の神秘性を高めてきた。
日本刀の歴史という観点から見れば、龍馬の暗殺は幕末における刀の「二面性」を象徴する。維新を夢見た先駆者が銃を手にしながらも、最後は刀によって命を絶たれた——これは刀と銃が入り混じった幕末という時代の縮図であり、明治以降の廃刀令へとつながる歴史の必然を予感させる出来事でもあった。