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安政5年〜6年(1858〜1859年)
江戸(主として)・京都・各藩領国
勢力
幕府弾圧側(井伊大老派)
尊王攘夷・反幕府側
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安政5年(1858年)、大老・井伊直弼は幕府の全権力を掌握し、前例のない大規模政治弾圧「安政の大獄」を発動した。その標的は将軍継嗣問題と日米修好通商条約(ハリス条約)に反対した全勢力——尊王攘夷の志士、水戸藩・長州藩・薩摩藩の反対派、そして朝廷の公家まで——にまで及んだ。
安政の大獄の直接の引き金は二つあった。第一は将軍継嗣問題である。第13代将軍・徳川家定は病弱で後継者がなく、一橋慶喜(水戸徳川家出身)を擁立する「一橋派」(越前・薩摩・尾張等の大藩が支持)と、紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」(保守的な譜代大名・井伊直弼が後ろ盾)が激突した。第二は日米修好通商条約の締結問題である。老中・堀田正睦が朝廷の勅許を求めたが孝明天皇は拒否。しかし井伊は安政5年6月、朝廷の勅許なしに独断で条約に調印した。これは「違勅調印」として尊王攘夷派の激烈な反発を招いた。
大老就任直後の井伊直弼は、一橋派を一掃し、開国反対・違勅調印への反発を封じ込めるべく、全国の志士・大名・公家への弾圧を開始した。
安政の大獄で最も後世に影響を与えた犠牲者の一人が、長州藩士・吉田松陰(1830〜1859)である。松陰は萩の松下村塾で高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋らを育てた思想家・教育者だった。開国反対論者であり、尊王攘夷の理論的支柱でもあった。
松陰は安政5年に老中・間部詮勝の暗殺を計画したとされ(間部要撃策)、これが幕府に察知されて江戸へ護送された。安政6年10月27日、松陰は江戸伝馬町の獄で斬首された。享年29歳。「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」——この辞世の句は明治維新の志士たちの精神的支柱となった。
越前藩(福井藩)の橋本左内(1834〜1859)は、藩主・松平慶永(春嶽)の腹心として一橋派を積極的に支持した俊才の政治家・医師だった。わずか25歳で老中格の信任を得ていた左内は、将軍継嗣問題で慶喜擁立に動いたことを理由に捕縛され、安政6年10月7日に斬首された。享年26歳。
越前藩主・松平春嶽もまた謹慎処分を受け、一橋派の大名たちは次々と政治の表舞台から排除された。
水戸藩は尊王攘夷思想の総本山であり、藩主・徳川斉昭は一橋慶喜(実子)の後見人として最も熱心な一橋派の支持者だった。井伊直弼は斉昭に対し永蟄居(終身謹慎)を命じ、水戸藩士のうち尊攘派幹部を次々と処断した。
またこの弾圧は公家にも及び、関白・九条尚忠と通じていた朝廷内の攘夷派公家が処罰された。100名超にのぼる処罰者の中には、死罪(斬首・獄死)、遠島、謹慎、隠居強制など様々な処分が含まれた。
安政の大獄が日本刀文化史に持つ意味は深い。弾圧を受けた尊王攘夷の志士たちにとって、日本刀は単なる武器ではなく「大和魂」の象徴であった。松陰門下の志士たちが身に帯びた刀は、思想と行動の一体化を体現するものだった。
また安政の大獄の弾圧者・井伊直弼本人も、名刀の愛好家として知られていた。井伊家は代々の刀剣コレクションを誇り、直弼は茶道・能楽と並んで刀剣にも深い造詣を持っていた。彼が後に桜田門外で浴びた刃は、皮肉にも彼が弾圧した志士たちが帯びていたのと同じ「尊攘の刀」であった。
この時期の志士が求めた刀は、実戦的な打刀・脇差であり、幕末の急速な需要拡大で新々刀(しんしんとう)の刀工たちは大量に受注した。水心子正秀の弟子・大慶直胤らが築いた新々刀の系譜は、まさにこの尊王攘夷運動の熱気の中で花開いた。
安政の大獄は安政6年末(1859年末)には一応の収束をみたが、その代償はあまりに大きかった。弾圧された水戸藩士たちは、復讐の機をうかがっていた。翌万延元年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の脱藩浪士18名が井伊直弼の駕籠を襲撃した(桜田門外の変)。
井伊直弼は即死に近い形で命を落とした。天下の大老が白昼、江戸城目前で暗殺されたこの事件は、幕府の絶対的権威が崩壊し始めたことを天下に知らしめた。安政の大獄の弾圧が、逆説的にも幕府崩壊への最初の引き金となったのである。
安政の大獄から桜田門外の変、そして池田屋事件・禁門の変・鳥羽伏見の戦いへと続く幕末動乱の連鎖——その起点に、井伊直弼の弾圧と志士たちの「大和魂」をめぐる激突があった。日本刀が精神の象徴として最も輝いた時代の、最も暗い夜が安政の大獄であった。