
乙巳の変(大化の改新の序章)
皇極4年(645年)6月12日
大和国飛鳥(現・奈良県明日香村)
- 日時
- 皇極4年(645年)6月12日
- 場所
- 大和国飛鳥(現・奈良県明日香村)
- 結果
- 蘇我入鹿暗殺、蘇我蝦夷の自害。蘇我本宗家滅亡。翌年に大化の改新。
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皇極4年6月12日(西暦645年7月10日)、飛鳥の宮廷(現・奈良県明日香村)において、蘇我入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)ら一派によって刺殺された。この政変は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれ、約150年にわたって権力を握り続けた蘇我氏の専横に終止符を打ち、天皇を中心とした律令国家への転換、いわゆる「大化の改新」の出発点となった。日本刀の源流となる上代の刀剣(直刀)が実際に政治的暗殺に用いられた最初の歴史的事例の一つとして、刀剣史においても特筆すべき事件である。
蘇我氏は6世紀後半から7世紀前半にかけて、大陸からの仏教・文化・制度を積極的に受容した豪族である。蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿と四代にわたって権勢を振るい、天皇家とも姻族関係を結びながら実質的な国政を掌握していた。特に蘇我馬子は593年に聖徳太子(厩戸皇子)とともに政治を運営したが、推古天皇崩御(628年)後は蝦夷・入鹿父子が専横を極め、皇族や有力氏族をも圧迫するようになった。643年には山背大兄王を自害に追い込むなど、蘇我入鹿の専横は頂点に達していた。
中大兄皇子(後の天智天皇)は皇極天皇の子で、蘇我氏の横暴に強い危機感を抱いていた。彼に協力したのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)である。鎌足は中臣氏出身の知識人で、学問を通じて中大兄皇子と深く結びついた。また、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)も内応した。石川麻呂は蘇我氏の一族ながら、入鹿の権勢に危機感を覚えていた人物である。
暗殺の舞台は、蘇我入鹿が朝廷の公式行事として三韓(百済・新羅・高句麗)の使者を迎える場であった。この儀式は飛鳥の大極殿(宮廷の正殿)で行われる予定で、入鹿も皇極天皇の御前に参列するため刀を外して参内することが礼法であった。中大兄皇子らはこの機会を利用し、入鹿が武装解除する場面を狙って計画を実行した。
儀式が始まると、蘇我倉山田石川麻呂が三韓の表文(上奏文)を読み上げる役を担い、時間を引き延ばした。中大兄皇子は門を閉めて退路を断ち、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいあみた)という二人の実行役が刀(直刀)を持って入鹿に斬りかかった。最初の一撃で入鹿の頭と顔を負傷させ、入鹿は皇極天皇の御前に倒れ込んで助けを求めたが、天皇は奥へ退き、中大兄皇子が自ら剣を取って入鹿に追い打ちをかけたとも伝わる。入鹿はその場で斬り殺された。
翌日(6月13日)、父の蘇我蝦夷は自邸に火を放ち、編纂中の歴史書もろとも自害した。こうして蘇我本宗家は滅亡した。蘇我蝦夷が焼いた歴史書の中には、天皇家と蘇我氏の「国記」「天皇記」が含まれていたとされ、日本古代史の一部が永遠に失われたとされている。
乙巳の変の翌年(646年)、「改新の詔」が発布された。これが大化の改新の中核となる政策であり、公地公民制(土地・人民の国家直接支配)、国郡里制(地方行政区画の整備)、班田収授法(口分田の配分)、税制の整備など、中国の律令制度を模範とした中央集権国家建設への歩みが始まった。
乙巳の変が日本刀・刀剣史の観点から重要な理由は何か。第一に、この事件は、日本の古代における「刀」が純粋な祭器・身分の象徴であるだけでなく、実際の政治的暗殺に用いられた実用的兵器であったことを示している。飛鳥時代の刀は大陸(中国・朝鮮)の影響を受けた直刀(反りのない片刃または両刃の刀)が主流であり、後世の湾曲した日本刀(太刀・打刀)の原型となるものである。この事件は、日本刀の原型となる上代の刀剣が実際に歴史を動かした瞬間として記録される。
第二に、暗殺の場が宮廷の儀式の場であったことも重要である。刀の携帯を許される者(武士・貴族)と許されない場(宮廷の御前)という身分・空間的秩序が既に形成されていたことが、この事件から読み取れる。入鹿が帯刀を外して参内したことが計画の前提になっていた点は、刀をめぐる礼法と権力のダイナミクスを如実に示す。
第三に、大化の改新以後の律令国家体制は、後に「武家」(武士階級)が登場する社会的土台となった。律令制のもとでの軍事・警察機能の整備は、後の平安期の「武士」の誕生につながり、武士と刀の不可分な関係が形成される歴史的起点の一つとなった。
乙巳の変は、刀剣を手にした少数の人間が宮廷の中枢で権力の構造を根底から変えた瞬間として、日本の刀剣文化史・政治史において永遠に重要な位置を占める事件である。