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天平宝字8年(764年)9月〜10月
平城京、近江国高島郡勝野鬼江(現・滋賀県高島市)ほか
勢力
藤原仲麻呂(恵美押勝)方
孝謙上皇・朝廷方
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天平宝字8年(764年)9月から10月にかけて発生した藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)は、奈良時代後期の政治体制を大きく転換させた政変である。太師(太政大臣に相当する最高職)として権勢の頂点にあった藤原仲麻呂が、孝謙上皇・道鏡に対して兵を挙げ、敗死した。
藤原仲麻呂は藤原南家・武智麻呂の子で、叔母にあたる光明皇太后の信任を背景に急速に台頭した人物である。天平宝字2年(758年)には淳仁天皇を擁立して即位させると、同年8月には唐風の名「恵美押勝」と特別な姓を賜り、天平宝字4年(760年)1月には太師にまで昇りつめた。この時期の仲麻呂は、淳仁天皇と光明皇太后という両輪の後ろ盾を得て、朝廷における権力を事実上一手に握っていた。
天平宝字4年(760年)6月、後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると、仲麻呂の権勢に陰りが生じ始める。同じ頃、孝謙上皇(既に譲位して上皇の立場にあった)は看病僧として近侍していた道鏡を寵愛するようになっていた。仲麻呂は淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡との関係を諫めさせようとしたが、これが孝謙上皇の怒りを買う結果となった。天平宝字6年(762年)6月、孝謙上皇は出家して尼となるとともに「天皇は恒例の祭祀など小事のみを行い、国家の大事と賞罰は自らが行う」と宣言し、淳仁天皇・仲麻呂側との対立を鮮明にした。
天平宝字8年(764年)、仲麻呂は太上天皇(孝謙上皇)に申請して都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使という軍事権限を得て、管内の兵士を召集する権限を得た。しかし兵員動員の際に員数の改竄が発覚し、孝謙上皇側に謀反の意図を察知される結果となった。事態を悟った孝謙上皇側は、天皇権力の正統性を象徴する鈴印(駅鈴と御璽)を先んじて確保し、仲麻呂方から奪い取った。鈴印を失った仲麻呂は都における正統性を失い、一族とともに本拠である近江国へ逃走する。
近江へ逃れた仲麻呂は、道中で塩焼王(新田部親王の子)を擁立して「今帝」と称するなど巻き返しを図ったが、孝謙上皇側は吉備真備らを指揮官とする追討軍を派遣して追撃した。仲麻呂軍は各地で追討軍と交戦したが劣勢を強いられ、最終的に近江国高島郡勝野鬼江(現・滋賀県高島市付近)まで追い詰められ、一族もろとも斬殺された。仲麻呂の死により乱は終結し、挙兵からおよそひと月足らずの短期決戦であった。
乱の直後、仲麻呂によって擁立されていた淳仁天皇は皇位を追われ、淡路国に配流された(淡路廃帝)。代わって孝謙上皇が重祚し、称徳天皇として再び皇位に就いた。以後、道鏡は太政大臣禅師、さらに法王という異例の地位にまで昇り、僧侶でありながら朝廷の実権を掌握する時代が到来する。この体制は神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件まで続くこととなった。
奈良時代の合戦では、当時の官人・兵士は主に直刀(当時はまだ反りのない直刀が主流であった)や弓矢を用いて戦ったとされる。仲麻呂の乱における軍事行動の具体的な武装の詳細を記す一次史料は乏しいが、律令国家の兵制のもとで諸国から徴発された兵士が武具を携えて動員された点は、後の令制国の軍団制・武器庫(兵庫)制度の実態を伝える貴重な事例である。正倉院には奈良時代の直刀や儀仗用の刀剣が多数現存しており、当時の宮廷における刀剣の役割——実戦の武器というより身分や権威を象徴する儀仗具としての性格——を今に伝えている。仲麻呂の乱は、こうした奈良時代の刀剣文化を背景に、律令国家の権力闘争が武力衝突にまで発展した数少ない事例の一つとして位置づけられる。