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天平12年(740年)8月〜11月
大宰府(現・福岡県太宰府市)、豊前国板櫃川、肥前国松浦郡(現・佐賀県唐津市)
勢力
藤原広嗣方(大宰府軍)
朝廷追討軍
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天平12年(740年)8月から11月にかけて起きた藤原広嗣の乱は、奈良時代における最大規模の内乱であり、聖武天皇の治世に大きな影響を与えた事件である。
藤原広嗣は藤原式家・宇合の子で、天平9年(737年)には従六位上の式部少輔であったが、その後急速に昇進し従五位下となり、大養徳守(大和守)も兼ねた。ところが天平10年(738年)12月、式部少輔・大養徳守の任を解かれ、同じ従五位下のまま大宰府の次官である大宰少弐に任じられる。これは中央から九州への左遷と受け止められ、広嗣の朝廷に対する不満を強めることとなった。
大宰府に赴任した広嗣は、天平12年(740年)8月、朝廷に上表文を提出した。その内容は、当時相次いでいた天変地異・疫病(天然痘の大流行)などの災厄は、遣唐使経験のある僧・玄昉と学者・吉備真備という二人の側近が朝政を乱していることに起因するものであり、二人を追放すべきだというものであった。玄昉と吉備真備は、聖武天皇の信任厚い橘諸兄政権のもとで急速に台頭していた人物であり、広嗣の左遷にも彼らの影響があったとみられている。朝廷からの返答を待たず、広嗣は8月末頃に挙兵に踏み切った。
広嗣は九州各国から兵を徴発し、その軍勢は1万余に達したと伝えられる。これに対し朝廷は大野東人を大将軍に任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道から兵を徴発した追討軍(1万7千余と伝わる)を派遣した。両軍は豊前国の板櫃川(現・北九州市付近)を挟んで対峙し、交戦となった。広嗣軍は緒戦では優位に立った場面もあったとされるが、次第に劣勢に追い込まれ、最終的に敗走する。
敗れた広嗣は弟の綱手とともに海路を西へ逃れ、肥前国松浦郡の値嘉島(現在の五島列島周辺とされる)まで落ち延びたが、追捕の手を逃れることはできず捕縛された。天平12年11月1日、広嗣・綱手兄弟は肥前国松浦郡(現・佐賀県唐津市付近)で処刑され、乱は終結した。
藤原広嗣の乱は、聖武天皇に大きな衝撃を与えた。乱の最中、天皇は突如として平城京を離れ、伊勢・美濃・近江を巡幸したのち山背国相楽郡の恭仁京へ遷都するなど、以後数年にわたり恭仁京・難波宮・紫香楽宮と遷都を繰り返す不安定な治世に入った。この時期はのちに「彷徨五年」と呼ばれ、乱への恐怖と政情不安が天皇の判断に色濃く影を落としたと考えられている。また乱後の742年から745年にかけて、大宰府は一時停止され、代わって軍事的性格の強い鎮西府が置かれ、九州における警戒体制が強化された。聖武天皇はこの混乱期に鎮護国家思想を強め、後の東大寺大仏造立の詔(743年)へとつながっていく。
奈良時代の合戦では、律令国家の軍団制のもとで諸国から徴発された兵士が、当時主流であった反りのない直刀や弓矢を主要な武器として動員されたと考えられている。藤原広嗣の乱は、九州全域から1万余の軍勢を徴発した記録が残る点で、奈良時代における律令軍制の実態を伝える貴重な事例であり、地方豪族や兵士がどのような武装で動員されたかを考える上で重要な合戦として位置づけられる。正倉院に伝わる奈良時代の刀剣類は、当時の武器がなお儀仗具としての性格を色濃く残していたことを示しており、広嗣の乱のような大規模な軍事動員が、こうした古代的な武装体系のもとで行われた最後期の内乱の一つであったといえる。