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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
19件のイベント
永禄年間(1558〜1570年)頃
戦国時代中期の永禄年間(1558〜1570年)、上泉伊勢守信綱(1508年頃生)が陰流を発展させて新陰流を創始した。信綱は革袋に入れた割竹(袋竹刀)を考案して稽古に革命をもたらし、「殺人刀」ではなく相手を制する「活人剣」の思想を体系化した。永禄7年(1564年)には足利義輝の前で天覧演武を行い、その後、柳生宗厳に奥義を伝えて柳生新陰流の基礎を築いた。
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昭和30年(1955年)〜現在
昭和30年(1955年)、日本政府は重要無形文化財保持者(通称・人間国宝)制度を発足させた。日本刀の鍛刀技術は当初から認定対象となり、第一回認定者には高橋貞次(1955年)・宮入昭平(1963年認定)らが選ばれた。この制度は戦後GHQ接収の危機を経て「文化財」と公的に規定された日本刀鍛冶の技術を国家が最高位で承認するものであり、以降の天田昭次・隅谷正峯・宮入法廣ら歴代人間国宝によって継承され、現代刀剣文化の礎を築いた。
昭和29年(1954年)
昭和29年(1954年)、文化財保護委員会が個々の刀工へ作刀を承認し、占領下で途絶えかけた鍛刀の実践がふたたび公に認められた。昭和28年の武器等製造法にもとづく承認制度と、翌昭和30年の人間国宝認定および新作名刀展の開始が、戦後の日本刀復興を支える枠組みとなった。
昭和26年(1951年)6月
昭和26年(1951年)6月のサンフランシスコ講和条約署名を前後して、日本では刀剣をめぐる民間活動が急速に活性化した。GHQ占領期に抑圧されていた刀剣保存・蒐集活動が解禁の方向に向かう中、各地で刀剣保存団体の設立や博物館展示が相次ぎ、戦後の刀剣蒐集文化の礎が築かれた。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)をはじめとする組織が整備され、刀工技術の継承体制と審美鑑定の体系化が進んだ。
明治9年(1876年)3月28日
明治9年(1876年)3月28日、太政官布告第38号「廃刀令」が発布された。軍人・警察官を除くすべての者の帯刀を禁じたこの一枚の布告は、千年以上にわたって武士の魂の象徴であった日本刀を街頭から消し去り、士族の怒りを招いて翌年の西南戦争の導火線となった。同時に、日本刀を「武器から芸術・文化財」へと転換させる近代刀剣文化の出発点ともなった画期的な布告である。
明治23年(1890年)制度設置、明治39年(1906年)4月4日 刀工任命
明治23年(1890年)、宮内省が帝室技芸員制度を設置し、日本の優秀な美術工芸家を帝室の栄誉をもって保護・奨励する仕組みを作った。廃刀令(明治9年・1876年)により日本刀需要が激減して16年後の明治39年(1906年)4月4日、刀工として月山貞一(初代)と宮本包則の2名が帝室技芸員に任命され、衰退の危機に瀕していた日本刀の伝統技術が公的に保護・承認された。
明和9年(1772年)2月29日(旧暦・新暦4月1日)
明和9年(1772年)2月29日(新暦4月1日)、江戸・目黒行人坂の大円寺から出火した大火は、翌日の正午まで燃え続け、江戸の約3分の1を焼き尽くした。死者14,700人、焼失家屋は10万軒以上に及ぶ江戸最大級の大火「明和の大火(目黒行人坂大火)」は、江戸に集積していた刀工工房を多数焼失させ、幕末に向けた江戸刀工集団の再編を余儀なくさせた歴史的事件である。
承元2年(1208年)
承元2年(1208年)、後鳥羽上皇は全国の優秀な刀工を水無瀬宮に招集し、月番制で交代に作刀にあたらせる「御番鍛冶制」を設立した。備前・備中・山城の名工約40名が選抜され、上皇自らも「菊御作」の号で作刀に参加した。この制度は日本刀を武器の枠を超えた芸術品へと昇華させ、鎌倉中期の刀剣黄金時代を生み出した。後世の権力者が刀工を厚遇する慣例の嚆矢となった朝廷主導の刀剣文化振興策として、日本刀史上最も重要な文化政策の一つに数えられる。
慶長8年(1603年)2月12日
慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。関ヶ原の戦いから2年余りを経て実現したこの政権確立は、以後260余年にわたる江戸時代の礎となった。幕藩体制の整備、武家諸法度の制定、参勤交代制度の法制化により、武士身分と刀装文化は高度に制度化され、日本刀は武器から武士の権威と美の象徴へと昇華していった。
応安元年(1368年)頃
南北朝末期から室町時代初頭にかけて、念阿弥慈恩(俗名・相馬四郎義元、1350年生)が創始した念流は、日本兵法三大源流の一つにして最古の流儀とされる。慈恩は1368年頃に九州・筑紫の安楽寺での修行中に剣の奥義を感得し、諸国遍歴を通じて剣法を完成させた。その弟子たちが中条流・馬庭念流を開き、後の一刀流へと連なる日本剣術の根幹系譜を形成した。
建長年間(1249〜1256年)
建長年間(1249〜1256年)、鎌倉幕府執権・北条時頼の招聘により山城から粟田口国綱が鎌倉へ移住し、その子または養子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)が相州(相模国、現・神奈川県)に根づいた技法から相州伝の基盤を形成した。国光は山城伝と備前伝の両技術を統合し、荒沸出来と呼ばれる強烈な刃文を特徴とする新様式を創出。この技法は弟子の正宗(まさむね)・行光(ゆきみつ)に受け継がれ、「天下五剣」に数えられる名刀群を生んだ相州伝として完成した。
天正4年(1576年)1月着工〜天正7年(1579年)5月天主完成
天正4年(1576年)1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、琵琶湖畔の安土山に新たな居城の築城を開始した。天正7年(1579年)5月、望楼型5重6階地下1階の壮麗な天主が完成し信長自ら移り住んだ。総石垣普請・狩野永徳の障壁画・楽市楽座の城下町政策など、当時の城郭建築の常識を覆す数々の革新が凝縮されたこの城は、天正10年(1582年)本能寺の変後まもなく焼失したが、後世の日本の城郭建築に決定的な影響を残した。
天正16年7月8日(1588年8月29日)
刀狩令の目的は、農民・寺社から武器を没収して一揆を防ぎ、兵農分離=武士と農民の身分を制度的に確立することにあった。天正16年(1588年)7月に豊臣秀吉が発令した日本刀史上最大の社会変革であり、集めた刀は方広寺大仏の釘・鎹に転用するという名目で断行され、近世身分制社会の礎となった。
天正13年(1585年)11月29日
天正13年(1585年)11月29日(旧暦)に発生した天正大地震は、マグニチュード推定7.8〜8.1の巨大地震であり、北陸・東海・近畿の広域に甚大な被害をもたらした。飛騨・越中・近江などの城郭や集落が倒壊し、推定死者数は数千〜1万人以上とも言われる。豊臣秀吉による天下統一直前の時代に発生したこの地震は、名城・名刀の散逸や武将の命運にも深刻な影響を与えた。
天明元年(1781年)頃〜文政年間(1818〜1830年)
天明元年(1781年)に江戸へ出府した水心子正秀(1749〜1823年)は、当時の刀剣界に漂う華美・形式主義を批判し、「日本刀は古刀の昔に復するべき」とする「刀剣復古論」を提唱した。『刀剣実用論』『剣工秘伝志』などの著作を通じて古刀期の鎌倉・南北朝様式への復帰を説き、全国から100名を超える弟子が工房に集まった。正秀の理論は、大慶直胤・源清麿らと並ぶ「江戸三作」の名工を生み出し、衰退していた日本刀文化を劇的に再生させた。刀剣史における「新刀」から「新々刀」への分水嶺として位置づけられるこの運動は、幕末の刀剣需要急増と相まって、廃刀令前夜までの刀剣黄金期を生み出した。
天文12年8月25日(1543年9月23日)
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島(現・鹿児島県)に漂着し、日本に初めて火縄銃(鉄砲)がもたらされた歴史的事件。島主・種子島時堯が2挺の鉄砲を購入し、島内の刀工・八板金兵衛らが短期間で国産複製に成功した。鉄砲の普及は戦国時代の戦争様式を根本から変え、長篠の戦い(1575年)での織田信長による鉄砲隊の組織的運用がその頂点となった。日本刀を主軸とした個人武勇の時代から、集団戦・遠距離兵器の時代への転換点となった事件である。
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)頃
嘉禎4年(1238年)頃、備前国長船(現・岡山県瀬戸内市長船町)において光忠(みつただ)が作刀を開始し、備前長船派の基盤を確立した。後鳥羽上皇の御番鍛冶制(1208年)で隆盛した福岡一文字派の技術的遺産を受け継ぎつつ、吉井川流域の地理的優位性と豊富な砂鉄資源を活かして独自の様式を発展させた。光忠の子・長光、孫・景光へと三代にわたり継承された長船派は鎌倉〜室町時代を通じて日本最大の刀剣生産地となり、数多の名将が長船作を愛刀とした。
南北朝時代前期(14世紀前半、建武〜貞和年間頃)
南北朝時代前期、大和国出身で正宗門下(正宗十哲)の志津三郎兼氏が美濃国志津へ、越前国敦賀出身の金重が関へと相次いで移住。大和伝と相州伝の技法を融合した実用本位の作風が美濃国に定着し、五箇伝最後の一伝「美濃伝」が確立された。
享保4年(1719年)11月3日
享保4年(1719年)11月3日、8代将軍徳川吉宗の命を受けた本阿弥光忠が「享保名物帳」を編纂・献上した。平安時代以降の名刀274振(現存刀168口・焼失80口・追記26口)を銘・来歴・寸法・評価額とともに体系的に記録したこの名刀目録は、江戸幕府の享保の改革を背景に、武士の刀剣鑑識眼の涵養を目的として作成された。現代でも刀剣研究の必須資料として参照され続ける「日本刀のバイブル」として、日本刀文化の体系化における金字塔的事業となった。