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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
138件のイベント
観応元年〜2年(1350〜1352年)
観応元〜3年(1350〜1352年)、室町幕府内で起きた足利尊氏と弟・直義の内紛。尊氏の執事・高師直が直義と激しく対立し、師直誅殺後は尊氏・直義が和解するも直義が毒殺されて終結。南北朝の動乱を更に複雑化させた幕府最大の内部対立。
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治承4年10月20日(1180年11月9日)
治承4年(1180年)10月、駿河国富士川(現・静岡県富士市)で行われた源平の野戦。伊豆に挙兵した源頼朝率いる東国武士団が、平維盛の率いる追討軍に対して大勝した合戦。平家軍は水鳥の羽音に驚いて潰走したという伝説的エピソードで知られるが、実態は東国武士が急速に結集した頼朝への求心力を示す歴史的一戦であった。
治承4年(1180年)8月23日
治承4年(1180年)8月23日、伊豆で挙兵した源頼朝が相模国石橋山で平氏方・大庭景親の大軍に大敗した戦い。頼朝は九死に一生を得て安房国へ逃れ、東国武士団を再結集して同年10月に鎌倉入りを果たす。生涯唯一とも言われるこの敗北が、鎌倉幕府創設への転機となった。
永禄8年〜永禄9年(1565年〜1566年)
永禄8年(1565年)から翌年にかけて、毛利元就が出雲国の尼子氏の居城・月山富田城を包囲・攻略した合戦。難攻不落として名高い月山富田城を1年余りに及ぶ兵糧攻めで陥落させた元就は、中国地方の覇権を確立した。尼子氏は滅亡し、出雲は毛利領となった。
永禄7年(1564年)正月3日
永禄7年(1564年)正月、北条氏康・氏政父子が率いる後北条軍が里見義弘の軍を国府台(現・千葉県市川市)で大破した合戦。里見氏の上総侵攻を阻止し、北条氏の関東支配を確固たるものとした戦いであり、戦国東国史における重要な節目である。
永禄12年1月〜5月(1569年2月〜6月)
永禄12年(1569年)1月〜5月、徳川家康が今川氏真の籠もる遠江国掛川城を包囲した戦い。桶狭間の戦い(1560年)で父・義元を失い、武田信玄の侵攻(1568年)で今川領が崩壊する中、氏真は最後の拠点・掛川城に立て籠もった。最終的に氏真は開城・降伏し、名門・今川氏は戦国大名としての命脈を絶った。「武よりも歌・蹴鞠」として知られる氏真の末路は、武家の覇権争いにおける刀剣文化の残酷な現実を映し出している。
永禄12年10月(1569年)
永禄12年(1569年)10月、武田信玄の甲相駿三国同盟破棄後の相模侵攻において、小田原包囲から撤退する武田軍を追撃した北条軍との激突。三増峠(現・神奈川県愛甲郡愛川町)において武田軍が北条追撃隊を破り、甲斐への帰還に成功した合戦。山県昌景が活躍した赤備えの騎馬隊による突撃が名高い。
永禄11年9月12日(1568年)
永禄11年(1568年)9月、上洛を目指す織田信長の大軍が南近江の六角氏を攻撃。支城・箕作城が一夜で陥落すると、六角義賢・義治父子は本城・観音寺城を放棄して逃走した。日本最大級の中世山城が無血で開城した象徴的な事件。
永禄10年4月18日〜10月11日(1567年)
永禄10年(1567年)4月から10月にかけて、松永久秀・三好義継連合軍と三好三人衆・筒井順慶連合軍が奈良で激突。10月10日夜の松永軍の夜襲を機に出火し、東大寺大仏殿と大仏の仏頭が焼失する未曽有の惨事となった。
永正14年(1517年)10月22日
永正14年(1517年)、安芸国で起こった有田中井手の戦いは、若き毛利元就の初陣として名高い。尼子氏の支援を受けた安芸の旧守護・武田元繁が吉川氏の有田城を攻めたのに対し、毛利・吉川連合軍が迎え撃った合戦で、寡兵の連合軍が武田方の勇将・熊谷元直を討ち取り、さらに大将・武田元繁をも流れ矢で斃して大勝した。「西の桶狭間」とも称される。
永保3年〜寛治元年(1083〜1087年)
永保3年〜寛治元年(1083〜1087年)、陸奥・出羽で勃発した東北の覇権争い。源義家が清原氏の内紛に介入し、金沢柵を陥落させて覇権を確立。前九年の役と並ぶ東北二大戦役として、源氏の武威と「奥州合戦の伝統」を作り上げた。
永享10〜11年(1438〜1439年)
永享10〜11年(1438〜1439年)、室町幕府第6代将軍・足利義教が鎌倉公方・足利持氏を討伐した合戦。独立性を高める持氏に義教が反発し、関東管領・上杉憲実が持氏と対立。幕府軍の支援を受けた上杉方が勝利し、持氏は自害。関東における足利一族の独立政権が終焉を迎えた。
正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)
正平3年/貞和4年(1348年)、河内国四条畷で楠木正行・正時兄弟の南朝軍と高師直・師泰の室町幕府軍が激突した戦い。兵力に劣る正行は奮戦の末に討死し、南朝は本拠・吉野を失う大打撃を受けた。
正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)
正平14年/延文4年(1359年)、筑後国大保原で征西将軍懐良親王・菊池武光ら南朝方と少弐頼尚・直資父子率いる北朝方が激突した、南北朝期九州最大規模の合戦。日本三大合戦の一つに数えられる。
明治元年〜2年(1868年12月〜1869年5月)
明治2年(1869年)、旧幕府軍が北海道・箱館の五稜郭に立て籠もった戊辰戦争最後の戦い。榎本武揚・土方歳三らが新政府軍と激闘を繰り広げ、土方は流れ弾に斃れた。日本刀による最後の大規模な組織的戦闘の一つとして、近代と古代の境界に位置する。
明治37年2月8日〜明治38年9月5日(1904〜1905年)
明治37〜38年(1904〜1905年)、日本帝国はロシア帝国と近代最大の陸海戦を戦った。この戦争は日本刀の位置づけを根本から変えた。西南戦争後に「実戦不要」と見なされた刀は、日露戦争での乃木希典・東郷平八郎らの活躍と日本軍の勝利を背景に「武士道の精神的象徴」として再評価され、明治32年制定の「三十二年式軍刀」が将校に普及した。
明治10年3月4日〜20日(1877年)
明治10年(1877年)3月4日から20日まで17日間にわたり、肥後国(現・熊本県熊本市北区植木町)の田原坂で行われた西南戦争最大の激戦。政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍が、熊本城救援route上の要衝・田原坂の争奪をめぐって死闘を繰り広げた。政府軍は警視隊から剣術に秀でた者を選抜した「抜刀隊」を投入して薩摩軍の白兵戦に対抗し、廃刀令後に軽視されていた日本刀の実戦的価値を再認識させる契機となった。
明徳2年12月(1392年1月)
明徳2年(1391年)、足利将軍家の権力を脅かすほど肥大化した山名氏清・満幸ら山名一族が、三代将軍・足利義満に反旗を翻した内乱。義満は京都周辺を電撃的に制圧し、山名氏の勢力を徹底的に削減した。この勝利は義満による室町幕府の最高権力確立を決定的なものとし、刀剣文化の後援者としての義満の絶頂期を告げた。
文禄元年4月〜文禄2年5月(1592年5月〜1593年6月)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸征服を目指して朝鮮半島に15万の大軍を送り込んだ「文禄・慶長の役」の第一次出兵。加藤清正・小西行長らが電撃的に漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍・明の援軍によって反撃され、1593年に停戦。日本刀が朝鮮・中国の兵器と初めて大規模に激突した歴史的戦争。
文治5年7月〜9月(1189年8月〜10月)
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を討伐し、奥州(陸奥・出羽)を制圧した軍事行動。平泉文化の終焉と鎌倉幕府の全国支配確立を意味する戦いであり、逃亡した源義経をかくまった泰衡への報復として実施された。
文永11年(1274年)10月
文永11年(1274年)10月、フビライ・ハーンが派遣した元・高麗連合軍約3万が博多湾に上陸した第1次蒙古来襲(元寇前期)。集団戦法・火薬兵器という未知の戦術に戸惑いながらも、日本の武士たちは個人武芸の頂点を担う刀剣で応戦した。この戦いは日本刀の実戦的優位性と限界を同時に示し、その後の鎌倉後期刀剣技術の革新を促した転換点である。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたり、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍が北九州へ来襲した対外戦争。神風(台風)による元軍の壊滅と、日本の刀剣技術に革命をもたらした転換点として知られる。
文明6年(1474年)〜天正8年(1580年)
文明6年(1474年)に加賀国(現・石川県)で勃発した一向一揆は、天正8年(1580年)に織田信長によって制圧されるまで約100年間にわたって続き、「百姓ノ持チタル国」と呼ばれる独自の自治を実現した。一向衆が武装して守護大名・守護代を倒したこの一揆は、日本刀の実戦的側面と宗教・農民の交わりを象徴する事件として、刀剣史に深く刻まれている。
承平7年〜天慶3年(937〜940年)
承平・天慶年間(939〜940年)に関東を舞台に起きた武装反乱。平将門が坂東八か国を制圧して「新皇」を称し、朝廷に対抗した。藤原秀郷・平貞盛連合軍が将門を討ち取り乱は鎮圧されたが、この反乱は武士の時代の幕開けを告げるとともに、刀剣産地の関東・東国への広がりを促す歴史的転換点となった。