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明徳2年12月(1392年1月)
山城国・摂津国(京都・大阪周辺)
勢力
室町幕府軍(足利義満)
山名氏清・山名満幸軍
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明徳2年(1391年)12月に勃発した明徳の乱は、室町幕府三代将軍・足利義満と、全国十一カ国を支配する大守護大名・山名氏清(やまな うじきよ)および山名満幸(やまな みつゆき)の一族との間に起きた武力衝突である。わずか数日間の短期決戦であったにもかかわらず、この乱の結果は室町幕府の権力構造を根本から変えた。山名一族の滅亡的な弱体化によって、足利義満は室町幕府史上最強の将軍権力を確立し、その後の日明貿易の推進や金閣寺建立、さらには南北朝合一(明徳3年・1392年)を成し遂げた。義満の時代は、室町時代の刀剣文化が最も豊かに開花した黄金期でもあった。
南北朝時代(1336〜1392年)の混乱の中で、山名氏は着実に勢力を拡大した。足利尊氏・直義の争い(観応の擾乱)を経て、幕府内部の権力闘争に巧みに乗じた山名氏は、最盛期において日本全国六十六カ国のうち約十一カ国を支配するに至った。これは全国の約六分の一に相当することから、山名氏は「六分の一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれ、その権勢は足利将軍家を脅かすほどであった。
山名氏清は山名一族の中でも特に強硬な人物であり、幕府に対して自立的な姿勢を取り続けた。義満との対立は表面上は抑えられていたが、氏清の野心は幕府の権威を直接的に脅かすほどのものであった。
足利義満は優れた政略家であった。山名氏の勢力が幕府にとっての脅威であることを認識した義満は、段階的に山名一族の内部分裂を策謀した。義満は山名氏の親族間の確執を利用し、山名氏の弱体化を図りながら、他の有力守護大名(細川・赤松・大内など)との連携を固めた。
義満が室町幕府の将軍として行ったことのひとつに、名刀の収集・下賜(かし)がある。義満は国内最高の刀剣鑑定眼を持ち、将軍家御物(ごもつ)として多くの名刀を収集した。有力守護大名への名刀下賜は、政治的な忠誠の確認と主従関係の強化を意味した。この「刀剣外交」は、義満の権力政治の重要な一側面であった。
特に注目されるのは、義満が東山御物(ひがしやまごもつ)の礎を築いた点だ。後世の「東山文化」へとつながる義満の文化政策は、刀剣・茶道具・書画・能など多方面に及び、武家文化としての室町刀剣美術の基準を確立した。
明徳元年(1391年)末から翌年にかけて、義満と山名氏清の対立は臨界点に達した。義満は巧妙に山名氏清を挑発・孤立させ、氏清が自ら兵を起こすよう状況を作り出したとも言われている。明徳2年12月、山名氏清・満幸は挙兵し、京都近辺で幕府軍と激突した。
しかし戦いの結果は短期間で決した。幕府軍は細川・赤松・大内などの有力守護大名の支援を受けており、山名軍を圧倒した。山名氏清は戦闘中に討ち取られ、満幸は戦場を逃れて後に討たれた。山名氏の支配国は十一カ国から三カ国(一説に二カ国)へと大幅に削減された。この迅速な勝利は義満の事前の周到な政治工作の成果であった。
明徳の乱の勝利後、足利義満は室町幕府の権力を完全に掌握した。翌明徳3年(1392年)、義満は南北朝合一を実現し、約60年間続いた朝廷の分裂に終止符を打った。この偉業は義満の政治的頂点を示すものである。
義満はまた、日明貿易(勘合貿易)を積極的に推進した。中国・明との貿易によって多くの文化財・美術品が日本にもたらされ、その中には中国の銘刀・唐物(からもの)も含まれた。義満の刀剣収集は、国内の和刀と中国からの渡来刀の双方に及んでいた。
応永4年(1397年)には北山山荘(後の金閣寺、現・鹿苑寺)を造営した義満は、武家でありながら公家的な文化を吸収した「公武融合文化」の体現者となった。この北山文化において、刀剣は武家の象徴であると同時に、美術的鑑賞の対象として確立された。後に足利義政が花開かせる「東山文化」の刀剣美術的感性は、義満の北山文化に原型を持つ。
明徳の乱に関連して、日本刀の歴史において注目される点が二つある。
第一に、山名氏清が率いた山名一族の武装についてである。中国地方・山陰道を支配した山名氏は、備前・備中の刀工との関係が深かった。山名氏の武士たちが帯刀した備前長船系の太刀は、14世紀後半の日本刀の典型的な形——反り深く、優雅な外観を持ちながら実戦的な切れ味を兼備する——を体現していた。明徳の乱において戦闘に用いられた刀剣の多くは、乱後に没収されるか、降伏した山名氏の家臣から幕府方へ分配された。
第二に、義満の将軍家御物に関する問題である。義満は室町幕府の将軍として、多数の名刀を収集・管理した。その後の将軍家御物(東山御物)の中核となる収集品の多くは、義満の時代に礎が置かれた。しかし室町幕府の衰退とともに、これら将軍家御物は散逸し、応仁の乱(1467年〜)以後は多くが行方不明となった。「東山御物の散逸」という問題は、日本刀の歴史においても重大な損失であり、現在では一部の作品のみが博物館・神社に残存している。
明徳の乱は短期間の内乱であったが、その後の義満独裁体制の確立を通じて、室町時代の刀剣文化の最盛期を生み出した。将軍家が名刀を収集し、守護大名に下賜し、刀剣鑑定の文化的権威となる——この室町刀剣文化のパターンは、明徳の乱後の義満の治世において完成された。