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永禄12年1月〜5月(1569年2月〜6月)
遠江国掛川城(現・静岡県掛川市)
勢力
徳川家康方(攻囲側)
今川氏真方(籠城側)
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永禄12年(1569年)1月、徳川家康の軍勢が遠江国掛川城(現・静岡県掛川市)を包囲した。城内に籠もるのは今川氏真——東海の覇者・今川義元の嫡男にして、今川家第11代当主である。
しかし氏真の手元に残る戦力は、すでに崩壊寸前だった。8年前の桶狭間の戦い(1560年)で父・義元が討ち死にし、永禄11年(1568年)には同盟者であったはずの武田信玄が今川領への侵攻を開始。信玄の侵攻を受けて今川の国衆は次々と武田・徳川方へと鞍替えし、今川の城々は次々と陥落した。掛川城は氏真にとって最後の砦だった。
この戦いは「戦国時代の明暗」を鮮烈に示す一幕である。刀を振るう将軍・足利義輝(永禄の変・1565年)とは対照的に、氏真は「刀よりも歌・蹴鞠を好んだ当主」として当時から知られていた。武家の棟梁でありながら武を軽んじた——そのような評価が氏真には付きまとう。掛川城での降伏は、その評価を歴史に刻んだ。
今川義元(1519〜1560)は戦国時代東海最大の実力者だった。駿河・遠江・三河の三国を支配し、「海道一の弓取り」と称された義元は、永禄3年(1560年)5月に大軍(推定2万5千〜4万5千)を率いて上洛を企てた。その途上の桶狭間で、織田信長の奇襲によって討ち取られた。享年42歳。
義元の死は今川家にとって致命的だった。強力な当主を突然失った今川は、三河の松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し(永禄3年〜5年)、三河を喪失した。それでも氏真は父の領国・駿河と遠江を維持し、一定の力を保っていた。
しかし問題は氏真自身の資質にあった。氏真は蹴鞠(けまり)を好み、和歌を詠み、文化的な素養においては優れていた。しかし戦国大名として求められる政治的判断力・軍事的才覚という点で、父・義元に遥かに及ばなかった。家臣統制も緩み、武田信玄の侵攻(永禄11年・1568年)を前に今川家中は瓦解した。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄が駿河への侵攻を開始した。武田・今川・北条の「甲相駿三国同盟」(天文23年・1554年成立)はここで崩壊した。
信玄の侵攻の理由については諸説あるが、最も有力なのは「今川氏の弱体化によって同盟の軍事的価値が低下し、むしろ今川領を武田・徳川で分割する方が実利的」という判断である。信玄は徳川家康と密約を結び、今川領を東西で分割する計画(「相武同盟」→甲越同盟から転換)のもとで侵攻した。
氏真は武田の侵攻に対して有効な抵抗ができなかった。駿河の国衆が次々と武田方に降り、氏真は駿府(現・静岡市)を追われ、遠江掛川城へと逃れた。駿河は事実上、武田の手に落ちた。
武田信玄と密約を結んでいた徳川家康は、遠江への侵攻を開始した。今川の国衆が次々と徳川に帰属し、遠江の大部分が家康の支配下に入った。
掛川城は今川方の最後の拠点となった。氏真は掛川城に籠もり、北条氏政(氏真の義理の兄弟。氏真の妻・早川殿は氏政の妹)に援軍を求めた。北条氏政は援軍を派遣したが、徳川軍を突き崩すには至らなかった。
徳川の掛川城包囲は永禄12年(1569年)1月から始まった。城の守りは堅固であり、家康も強攻を避けて兵糧攻めの方針をとった。この包囲は約5ヶ月間続いた。
最終的に永禄12年5月、氏真は徳川家康と和議を結んだ。氏真の命と今川家の存続(武家としての家格は認める)を条件に、掛川城を明け渡した。氏真はその後、妻・早川殿とともに北条氏の小田原へと落ち延び、北条の庇護下に入った。
掛川城の戦いと今川氏真を巡る物語は、刀剣文化という観点から見ると独特の意味を持つ。
今川家は東海随一の大名家として、優れた刀剣の所有・管理においても名門だった。今川義元が桶狭間で討ち取られた際に信長が奪った「義元左文字」(よしもとさもんじ)は、現在「宗三左文字」とも呼ばれ、刀剣界でも著名な一振りである。この刀は義元が三好政長から奪い、義元死後は信長・秀吉・家康と転々とした「天下人の刀」として知られる。
しかし氏真自身は、この「名刀の遺産」を引き継ぎながら、刀が象徴する「武の価値観」を体現することができなかった。蹴鞠の名手として知られた氏真は、後世から「文化人・武を知らぬ当主」として評されることが多い。
この評価は必ずしも公平ではない。氏真は戦国大名としては力量が不足していたかもしれないが、文化人として和歌・蹴鞠・芸能を愛した人物として江戸時代まで生き延び、その文化的素養は後に高く評価されている。また氏真は徳川の庇護下で長寿を保ち(1614年没、享年77歳)、家康から手厚く遇された。「武を捨てた今川」は、皮肉にも「武で勝った徳川」によって生き延びた。
掛川城の戦いが終わった永禄12年(1569年)は、東海の権力構図が根本的に変わった年である。
武田信玄が駿河を制し、徳川家康が遠江を制した。かつて三河・遠江・駿河を支配した今川の「三国支配」は完全に崩壊した。代わりに東海を舞台とした「武田対徳川」という対立軸が生まれ、これが三方ヶ原の戦い(元亀3年・1572年)への道を開く。
刀剣の観点からは、今川家の崩壊によって今川家伝来の刀剣群が散逸・移動したことが重要である。義元の「宗三左文字」のように、合戦の勝敗によって名刀が新しい所有者に移っていく過程は、戦国時代の刀剣史の大きな特徴であり、掛川城の戦いはその一幕を形成している。
また掛川城は、この戦い以後、徳川の「遠江支配の拠点」として機能し、後に山内一豊(関ヶ原後に土佐へ転封)の城としても知られることになる。掛川城の歴史は「今川の終わりと徳川の始まり」という転換点において刻まれた。今川氏真が城を去った時、彼は刀を帯びていただろう——しかしその刀が象徴する「武者の世界」は、もはや氏真を受け入れなかった。