新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)
河内国讃良郡野崎から北四条(現・大阪府大東市・四條畷市)
勢力
南朝方(楠木軍)
室町幕府軍(北朝方)
約6分で読めます
正平3年/貞和4年(1348年)当時、南朝の後村上天皇を奉じる楠木正行は、亡き父・正成の遺志を継いで河内国を拠点に室町幕府への抵抗を続けていた。正成が延元元年(1336年)の湊川の戦いで討死してから十余年、正行は成長して楠木家の棟梁となり、正平2年(1347年)以来、紀伊・河内で相次いで挙兵し、藤井寺や住吉で幕府方の軍勢を撃破して気勢を上げていた。特に同年11月、隅田・高安両氏との戦いや、細川顕氏・山名時氏率いる軍勢を打ち破った戦功は京にまで伝わり、幕政を主導する足利尊氏・直義兄弟、そして尊氏の執事高師直に強い危機感を抱かせた。当時の幕府はすでに観応の擾乱へとつながる内部の路線対立を抱えており、尊氏と直義のいずれもが南朝方の伸張を放置できない政治状況にあった。
この情勢を受け、幕府は南朝の本拠・吉野を直接攻略する方針を固め、執事高師直を総大将とする大軍を河内へ差し向けることを決した。師直が率いる第一軍は諸記録により兵数の異同があるが、『醍醐地蔵院日記』によれば約1万騎とされ、河内国讃良郡の野崎に本陣を構え、東方の飯盛山にも別働隊を配置して二重の備えを敷いた。師直の弟・高師泰が率いる第二軍は和泉国堺方面に進出し、南朝方を南北から挟撃する態勢を整えていたと伝わる。対する正行の兵力は『太平記』に3000余騎と記されるが、これは物語としての誇張とみる説が有力であり、実数はさらに少なかったとみられている。圧倒的な兵力差を前にしても正行が野戦を選んだ背景には、吉野を直接防衛するにはこの段階で幕府の大軍を食い止める以外に有効な策がなかったという事情があったとされる。
正平3年1月5日(西暦1348年2月4日)、正行・正時兄弟はあえて劣勢の中で決戦を挑んだ。両軍が対峙した野崎周辺は深野池によって西側を大きく囲まれた狭隘な湿地帯であり、正行軍はこの地形を利して師直本陣への奇襲を試みたとされる。緒戦では南朝方が優勢に進み、一時は師直の本陣近くまで斬り込んだとも伝わるが、東の飯盛山に配されていた幕府軍支隊がこれに呼応して側面から出撃したことで戦局は一変した。挟撃を受けた正行軍は野崎から北四条方面へと押し戻され、包囲網の中で次第に兵を失っていく。
なおも奮戦を続けた正行であったが、深手を負い、もはやこれまでと覚悟を決めると、弟・正時と刺し違えて自害したと伝えられる。北四条の地で討ち取られた正行の首級は、翌1月6日に京都六条河原で梟首された。この一戦で南朝方は正行・正時をはじめ一族・重臣27人が討死し、雑兵を含めて数百人規模の死者を出したとされる一方、幕府方の損害は上山高元・細川頼行・細川義春ら数名にとどまったと記録されており、兵力・死傷者数の両面において幕府軍の圧倒的な勝利に終わった。合戦の経過を記す『太平記』では、正行の奮戦ぶりと最期の壮絶さが詳しく描かれており、後世この場面が能や浄瑠璃、講談などさまざまな形で語り継がれる素地となった。
四条畷での大敗により、河内における南朝方の防衛線は事実上崩壊した。南朝方随一の若き将であった正行を失ったことで組織的な抵抗の核が失われ、幕府軍はほとんど抵抗を受けることなく大和へと進撃を続けた。正平3年1月末、ついに南朝の本拠地であった吉野行宮は幕府軍の攻撃を受けて陥落し、後村上天皇は賀名生行宮(現・奈良県五條市)への逃避を余儀なくされている。吉野を追われた南朝は以後、長く各地を転々とする不安定な状態に置かれることになり、四条畷の敗北がその出発点となった。
正成の代から続いてきた楠木一族は、河内・和泉を拠点に南朝方軍事力の中核を担ってきたが、正行・正時の戦死と吉野喪失という二重の打撃により、南朝の勢威はこの戦いを境に大きく後退することとなった。四条畷の敗北は単なる一地方の合戦にとどまらず、正平3年から翌年にかけて表面化する幕府内部の権力抗争(観応の擾乱)へと至る北朝側の優位を決定づけた転機の一つとしても位置づけられている。皮肉なことに、この勝利によって声望を大きく高めた高師直は、その後まもなく直義派との対立を先鋭化させ、観応の擾乱の渦中で非業の最期を遂げることになる。
四条畷への出陣に先立ち、正行が吉野の如意輪堂の壁板に鏃で「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」との辞世を刻んだという逸話は、桜井の別れ(正成が湊川出陣前に正行へ訓戒を与えた場面)と並び、楠木父子の忠義を象徴する物語として後世広く語り継がれた。江戸期以降の楠公崇拝、明治期の南朝正統論の高まりの中で正行の評価はいっそう高まり、戦場となった北四条の地には正行を祭神とする四條畷神社が明治23年(1890年)に創建されている。現在の大阪府大東市・四條畷市一帯には正行の墓や古戦場碑が今も点在し、地名「四條畷」自体もこの戦いに由来する。
武具史の観点からは、この戦いは南北朝動乱期における河内・和泉系の武装と刀剣が大規模な実戦で用いられた終盤の合戦の一つとしても記憶されている。正行を含む楠木一族が用いた太刀・薙刀の様式は、当時の畿内武士団の装備を反映するものとして後世の研究対象ともなっており、四条畷・吉野周辺には南北朝期の刀剣や武具にまつわる伝承も数多く残されている。近代以降、この戦いは忠義の物語としてだけでなく、南北朝動乱という日本史上の一大転換点を象徴する事件として、歴史教育や文学作品の中で繰り返し取り上げられ続けている。
四条畷の戦いの経過を今日に伝える最も詳細な史料は『太平記』であり、正行の出陣から最期に至るまでの場面は同書の中でも屈指の名場面として知られる。ただし『太平記』は軍記物語としての脚色を多分に含むため、兵力や戦闘の細部については『梅松論』や『園太暦』、『醍醐地蔵院日記』など同時代の他の記録と照らし合わせて実像を探る必要があるというのが近年の研究の立場である。それでも、正行が寡兵をもって幕府の大軍に挑み、壮絶な最期を遂げたという大筋については、複数の史料が共通して伝えるところであり、史実としての骨格は揺らいでいない。
近代に入ると、四条畷の戦いは単なる中世の一合戦としてではなく、南朝を正統とする皇国史観の中で特別な位置づけを与えられるようになった。楠木正成・正行父子はともに「大楠公」「小楠公」と称され、明治政府による南朝正統論の確立とともに、忠君愛国の象徴として学校教育や国定教科書でも繰り返し取り上げられた。四條畷神社の創建もこうした時代背景の中で実現したものであり、地域の人々の間では今なお正行を偲ぶ祭礼が続けられている。戦後は史観そのものへの見直しが進んだが、四条畷の戦いが南北朝動乱の帰趨を左右した重要な合戦であったという歴史的評価そのものは、現在の学術研究においても揺らいでいない。
現在、四条畷の戦いにまつわる史跡は大阪府大東市・四條畷市一帯に広く分布しており、正行の墓とされる「楠塚」や、決戦の地に建てられた石碑、四條畷神社の境内に残る資料館などを通じて、南北朝動乱期の記憶が地域社会の中で丁寧に受け継がれている。毎年の例祭には多くの参拝者が訪れ、正行・正時兄弟の忠義を偲ぶ行事が営まれ続けている。