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明治10年3月4日〜20日(1877年)
肥後国(現・熊本県熊本市北区植木町田原坂)
勢力
政府軍
薩摩軍(西郷軍)
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田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)は、明治10年(1877年)3月4日から20日までの17日間にわたり、肥後国(現・熊本県熊本市北区植木町)の田原坂において行われた戦闘で、西南戦争を通じて最大の激戦となった。
西南戦争は、明治10年(1877年)1月29日から9月24日にかけて、鹿児島の私学校生徒を中心とする士族が西郷隆盛を盟主として起こした武力反乱であり、明治初期の一連の士族反乱の中でも最大規模、かつ日本最後の内戦とされる。
明治6年(1873年)の征韓論政変に敗れて参議を辞した西郷隆盛は鹿児島へ帰郷し、桐野利秋・篠原国幹・別府晋介ら約600名の鹿児島出身官僚・軍人もこれに従って帰郷した。翌明治7年(1874年)6月、鹿児島城厩跡に銃隊学校・砲隊学校からなる士族子弟向けの私学校が設立され、西郷を精神的支柱とする士族集団の一大拠点となっていた。明治10年1月、鹿児島における不穏な動きを警戒した新政府が草牟田の弾薬庫から弾薬等を密かに搬出しようとしたところ、これに反発した私学校徒が施設を襲撃して弾薬を奪取する事件が発生し、さらに西郷暗殺の疑惑も重なったことから、私学校幹部らは西郷を説得して挙兵に踏み切らせた。これが西南戦争の直接的な発端である。
明治10年2月22日、西郷隆盛率いる薩摩軍は熊本鎮台の置かれた熊本城に総攻撃を開始した。しかし加藤清正の築いた堅牢な城郭は容易に落ちず、熊本鎮台司令長官・谷干城は、通行を求める西郷側の要請を新政府の抗戦命令に従って拒否し、籠城による徹底抗戦を選んだ。城内では2月19日に備蓄していた30日分の食糧を火災で焼失する事態も生じたが、翌20日に鎮台会計部が市街・近郊村から20日分の食糧を新たに調達するなどして持ちこたえ、52日間にわたる籠城の末に政府軍援軍との合流を果たすこととなる。政府軍は熊本城救援のため、征討総督・有栖川宮熾仁親王のもと、征討参軍・山縣有朋陸軍中将らが率いる大部隊を九州へ派遣した。この救援部隊が熊本城へ至るためには、高瀬(現・玉名市)方面から熊本へ通じる街道上の要衝である田原坂を突破する必要があった。
田原坂は、大砲や荷馬車などの大型装備が通行可能な数少ない道の一つであり、政府軍・薩摩軍双方にとって軍事的に極めて重要な地点であった。薩摩軍はここに強固な陣地を構築し、政府軍の熊本進撃を阻止しようとした。
西南戦争における熊本方面の激戦地は、田原坂・横平山・吉次峠の三箇所が「西南戦争三大激戦地」として知られる。江戸期以来、この一帯には豊前街道・三池往還・吉次往還が通っており、博多に本陣を置いた政府軍が北上する薩摩軍を鎮圧しつつ熊本城へ援軍を送るには、これら三ルートのいずれかを突破する必要があった。田原坂を本街道とすれば、吉次峠はその脇道(裏街道)にあたり、政府軍は高瀬で軍を二手に分けて田原坂と吉次峠の双方から攻略を試みた。吉次峠方面の戦闘は田原坂よりも長期化し、政府軍が田原坂を突破した後も、隣接する木留(きどめ)では激戦が続いた。
本格的な戦闘は明治10年3月4日に始まり、以後20日まで17日間にわたって一進一退の攻防が続いた。政府軍は兵力・火力で薩摩軍を圧倒していたが、指揮官級の士族出身者に率いられた薩摩軍の兵士が薩摩示現流をはじめとする剣術に長け、白兵戦・斬り込みにおいて政府軍を苦しめた。政府軍の兵士の多くは徴兵令によって集められた平民であり、剣術の錬度において薩摩士族に及ばなかったためである。
政府軍の死者は1日あたり100名にも上ることがあり、田原坂における政府軍戦死者は西南戦争全体の政府軍戦没者のおよそ4分の1を占めたとされる。西南戦争全体では両軍合わせて約1万4,000名余りの戦死者が出たと伝えられ、田原坂の攻防だけで1日あたり32万発もの銃弾が消費されたとされるほどの激しい銃撃戦が続いた。連日の激しい雨も戦闘を過酷なものにし、双方の兵士は泥濘の中での消耗戦を強いられた。この時の官軍と薩軍の攻防は、後年「雨は降る降る人馬は濡れる…」の歌い出しで知られる民謡「田原坂」にも歌われ、激戦の記憶を後世に伝えている。
薩摩軍の白兵戦・斬り込み戦術に対抗するため、警視庁(警視隊)の川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部ら(いずれも薩摩出身)が、征討参軍・山縣有朋に対し、剣術に秀でた警視隊員を選抜して投入することを進言した。山縣はこれを「抜刀隊(ばっとうたい)」と命名し、植木口を担当していた警視隊から剣術練達者およそ110余名を選抜して第一次抜刀隊を編成した。
明治10年3月14日早朝、抜刀隊は薩摩軍陣地に対して奇襲的な斬り込みを敢行し、大きな戦果を挙げた。この活躍は田原坂攻略における重要な転機となった。
抜刀隊の活躍が特に象徴的な意味を持ったのは、当時の日本刀を取り巻く状況との関係においてである。明治9年(1876年)の廃刀令により、軍人・警察官を除く帯刀が禁止され、日本刀の需要は激減していた。軍制も西洋式に倣い、軍刀にはサーベル式の刀剣が採用される傾向にあった。しかし田原坂における抜刀隊の白兵戦での活躍は、近代兵器の時代にあってもなお日本刀を用いた剣術・白兵戦闘が実戦的価値を持つことを示し、日本刀という伝統武器の再評価につながったとされる。抜刀隊はのちに軍歌「抜刀隊」(外山正一作詞・シャルル・ルルー作曲)としても顕彰され、広く知られる存在となった。
3月20日、政府軍はついに田原坂の薩摩軍陣地を突破し、熊本城への進撃路を確保した。これにより熊本城の包囲は間もなく解かれ、薩摩軍は敗退を重ねて南下し、最終的に同年9月24日、鹿児島の城山において西郷隆盛が自刃し西南戦争は終結した。
田原坂の戦いは、廃刀令によって存亡の危機にあった日本刀の実戦的・文化的価値が、皮肉にも内戦の白兵戦を通じて再認識される契機となった出来事として、日本刀史においてしばしば言及される。この戦いを機に日本刀を模した軍刀(後の指揮刀等)の意義が見直され、近代日本における刀剣文化存続の重要な分岐点の一つとなったとされる。
田原坂の激戦地は現在、熊本市北区植木町に「田原坂公園」として整備され、平成27年(2015年)に「近代日本の夜明けを学び伝える歴史学習施設」を基本コンセプトとしてリニューアルされた田原坂西南戦争資料館が設置されている。園内には当時の激戦を物語る「弾痕の家」(松下彦次郎家の土蔵を、両軍の弾痕が写る古写真をもとに復元したもの)や慰霊塔が建ち、資料館には実際に使用された刀剣・銃器、発掘された銃弾、戦死者名簿などが多数展示され、西南戦争最大の激戦を今日に伝えている。田原坂を含む一帯は「史跡西南戦争遺跡」として平成25年(2013年)3月27日に国の史跡に指定され、玉東町・熊本市にまたがる約19万3,000平方メートルの範囲が保護の対象となっている。なお、田原坂そのものは一ノ坂・二ノ坂・三ノ坂の三区間からなり、幅約4メートル、全長約1.5キロメートルの坂道であったと伝えられる。