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明治11年5月14日(1878年)
東京府麹町区紀尾井町清水谷(現・東京都千代田区紀尾井町)
勢力
石川・島根県士族6名(暗殺実行犯)
大久保利通・御者中村太郎
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紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、明治11年5月14日(1878年)、東京府麹町区紀尾井町清水谷(現・東京都千代田区紀尾井町)において、内務卿・大久保利通が石川県・島根県の士族6名によって暗殺された事件である。大久保は日本刀によって頭部を含む全身16箇所の傷を受けて絶命した。享年49。暗殺に使用された主犯・島田一郎の刀は警視庁に押収・保存され、現在も警視庁の特別資料室に所蔵されている。この事件は廃刀令(明治9年・1876年)施行から2年後に発生しており、廃刀後も旧士族が政治的暴力の手段として日本刀を用いた最も衝撃的な事例として、明治史・刀剣史の双方において特筆すべき事件である。
大久保利通(1830〜1878年)は薩摩藩出身の明治維新の元勲であり、廃藩置県(1871年)・岩倉使節団(1871〜1873年)・地租改正(1873年)・西南戦争鎮圧(1877年)を主導した明治前期最大の権力者の一人であった。内務省を設立して自ら初代内務卿(大臣)に就任し、近代国家の中央集権的行政機構を構築した。大久保は西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」の一人とされるが、西南戦争(1877年)では自らの盟友・西郷隆盛を政府軍で鎮圧するという苦渋の決断を下した。この決断は大久保個人にとっても深い痛みを伴うものであり、西南戦争終結後の大久保は友人に「もう3年生きれば仕事ができる」と語ったと伝えられているが、その言葉が実現することはなかった。西南戦争後、大久保は征韓論争(1873年)で政府を去った板垣退助・後藤象二郎らの自由民権運動の台頭と、旧士族階層の不満という二重の政治的圧力に直面していた。
明治11年5月14日午前8時30分頃、大久保利通は馬車で赤坂仮皇居(現・赤坂御所付近)に向かう途中、麹町区紀尾井町清水谷の坂道(現・紀尾井坂)にさしかかった。坂の上で待ち伏せていた6名の士族——石川県士族の島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤——が突然馬車を囲んで襲撃した。まず馬を斬って馬車を停止させ、御者・中村太郎を斬殺した後、馬車の扉を開いて大久保に斬りかかった。大久保利通は日本刀によって頭部を含む全身16箇所の傷を受けて即死した。暗殺犯6名は犯行の直後に自首し、同年7月27日に全員が大逆罪による斬首刑に処せられた。大久保の遺体は当日中に自宅に運ばれ、その知らせは明治政府全体に衝撃を与えた。
主犯の島田一郎が使用した刀は、事件後に警視庁に証拠品として押収された。この刀は警視庁本庁舎内の特別資料室に現在も保存されており、明治期の実際の政治的暗殺に使用された日本刀として歴史的・資料的に極めて高い価値を持つ。島田一郎ら犯人たちは廃刀令(1876年)施行後も刀を隠し持っていたと考えられている。廃刀令は公の場での帯刀を禁止したが、刀の所持・自宅保管そのものを完全に禁じたわけではなく、旧士族が自宅に刀を蔵することは実態上は黙認されていた。犯人たちが使用した刀は、新々刀(shin-shintō)期(寛政〜幕末、1789〜1868年)の実戦刀であった可能性が高い。新々刀は古刀・新刀の技法を研究・復古した幕末の刀工たちの作であり、実戦的な切れ味と強度を重視した作風が特徴である。暗殺に使われた刀の具体的な銘は史料に記されていないが、警視庁に保存されたこの刀は、廃刀令後の日本刀がなお「武器」として機能していた時代を証言する現存資料として唯一無二の存在である。
暗殺犯たちは事件前に「斬奸状(ざんかんじょう)」——犯行理由を記した書状——を作成し、大久保を暗殺する理由を4点列挙した。斬奸状の主な告発内容は「天皇の権威を蔑にして専制政治を行った」「地租改正・西南戦争鎮圧等の悪政で民を苦しめた」「民権を弾圧した」「朝鮮問題を有利に処理できなかった」の4点であった。この告発文は征韓論争・自由民権運動・旧士族の生活困窮という明治前期の政治的矛盾が凝縮されており、一個人の感情的怨恨を超えた時代の構造的矛盾の爆発であった。大久保暗殺は、廃藩置県・廃刀令・秩禄処分という一連の政策によって特権的地位と禄を失い、刀を帯びる権利まで剥奪された旧士族階層の怨念が、最後の日本刀として噴出した事件として解釈できる。
紀尾井坂の変は廃刀令(1876年)施行のわずか2年後に起きた。廃刀令は「大礼服着用の時及び軍人・警察官が職務として帯刀する場合」を除き、すべての帯刀を禁止した画期的な法令であった。しかしその直後の明治9年10月に神風連の乱(熊本)が、明治9年(1876年)10月に萩の乱が勃発し、いずれも旧士族が刀・小銃を持って明治政府に叛旗を翻した。翌明治10年(1877年)の西南戦争では西郷隆盛率いる薩摩士族軍が政府軍に挑んだが、最終的には政府の近代的装備・徴兵軍に敗れた。紀尾井坂の変はこの西南戦争終結(1877年)の翌年に発生し、武力反乱ではなく政治的暗殺という形で廃刀後の刀が使用された最後の大事件の一つとなった。この事件以降、日本刀が政治的暴力の主たる道具として公的事件に登場する機会は急速に失われていく。刀は実戦兵器から美術工芸品・精神文化の象徴へと完全に移行し、今日の刀剣文化へとつながる長い道のりが始まった。
紀尾井坂の変が起きた明治11年(1878年)は、廃刀令(1876年)の直後であり、日本刀の制作・流通・所持をめぐる社会的変容が進んでいた時期である。廃刀令以前の新々刀期(寛政〜慶応、1789〜1868年)には、源清麿・固山宗次・山浦真雄・山浦清麿・月山貞一らの名工が傑作を残した。廃刀令後も刀工たちは作刀を続けたが、実需(武器としての需要)が失われたため、美術刀剣・儀礼用刀剣・軍刀(将校用)としての需要へと転換していった。明治期の刀工として栄えた月山貞一(2代)・宮入行平・栗原彦三郎昭秀らは、廃刀令後の新時代に美術・工芸としての刀剣制作を確立した。紀尾井坂の変は、この「武器としての刀」から「美術・工芸としての刀」への転換点を最もドラマティックに示す事件として位置づけられる。暗殺に使われた刀が警視庁に「証拠品」として保存されているという事実自体が、刀がすでに「管理・保存の対象」として扱われる近代的価値観の中に取り込まれていたことを示している。
大久保利通の死は明治政府に深刻な打撃を与えた。大久保が担ってきた強力な政治指導力の空白は、伊藤博文・井上馨・山縣有朋らの台頭を促し、明治政府の権力構造を変容させた。自由民権運動との対立という大久保の未解決の政治課題は、国会開設の詔(1881年)・大日本帝国憲法制定(1889年)という形で一定の解決を見ることになる。刀剣史の観点から見ると、紀尾井坂の変の後、廃刀令の実効性は強化され、旧士族が日本刀を政治的暴力の道具として使用する可能性は制度的に封じられた。大久保の暗殺に使われた刀が警視庁に保存されているという事実は、日本刀が「武器の時代」から「文化財の時代」へと移行する歴史的転換点の生き証人として今日も静かにその重みを伝えている。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)が設立される昭和23年(1948年)まで約70年、紀尾井坂の変で使われた刀と同じ時代に生まれた数多くの新々刀が、戦乱と近代化の嵐を超えて美術品として保存されてきた。その意味で、紀尾井坂の変は日本刀が「武器」から「文化財」へと転換する歴史的節目を最も象徴的に示す事件として、刀剣史に永く記憶されている。