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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
276件のイベント
正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)
正平14年/延文4年(1359年)、筑後国大保原で征西将軍懐良親王・菊池武光ら南朝方と少弐頼尚・直資父子率いる北朝方が激突した、南北朝期九州最大規模の合戦。日本三大合戦の一つに数えられる。
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昭和8年(1933年)4月1日
1933年(昭和8年)、美術品の海外流出を防ぐため重要美術品等ノ保存ニ関スル法律が施行された。国宝級でまだ指定されていないものを認定し、刀剣は認定が特に多い分野の一つとなった。1949年まで続いた。
昭和4年(1929年)
1929年(昭和4年)、古社寺保存法に代わる国宝保存法が公布・施行された。所有者を社寺に限らず国有・公有・私有を問わず国宝に指定でき、旧大名家に伝わる名刀も対象となった。1950年の文化財保護法まで続いた。
昭和33年(1958年)
昭和33年(1958年)に制定された銃砲刀剣類所持等取締法は、刀剣類の所持を原則禁止としつつ、美術品として価値のある刀剣類を都道府県教育委員会への登録により所持できるとした。戦後の日本刀が「登録証付きの美術品」として流通する仕組みの基礎である。
昭和30年(1955年)〜現在
昭和30年(1955年)、日本政府は重要無形文化財保持者(通称・人間国宝)制度を発足させた。日本刀の鍛刀技術は当初から認定対象となり、第一回認定者には高橋貞次(1955年)・宮入昭平(1963年認定)らが選ばれた。この制度は戦後GHQ接収の危機を経て「文化財」と公的に規定された日本刀鍛冶の技術を国家が最高位で承認するものであり、以降の天田昭次・隅谷正峯・宮入法廣ら歴代人間国宝によって継承され、現代刀剣文化の礎を築いた。
昭和29年(1954年)
昭和29年(1954年)、文化財保護委員会が個々の刀工へ作刀を承認し、占領下で途絶えかけた鍛刀の実践がふたたび公に認められた。昭和28年の武器等製造法にもとづく承認制度と、翌昭和30年の人間国宝認定および新作名刀展の開始が、戦後の日本刀復興を支える枠組みとなった。
昭和26年(1951年)6月
昭和26年(1951年)6月のサンフランシスコ講和条約署名を前後して、日本では刀剣をめぐる民間活動が急速に活性化した。GHQ占領期に抑圧されていた刀剣保存・蒐集活動が解禁の方向に向かう中、各地で刀剣保存団体の設立や博物館展示が相次ぎ、戦後の刀剣蒐集文化の礎が築かれた。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)をはじめとする組織が整備され、刀工技術の継承体制と審美鑑定の体系化が進んだ。
昭和25年(1950年)5月30日公布・8月29日施行
1949年の法隆寺金堂火災を契機に、議員立法で文化財保護法が制定され、1950年8月29日に施行された。国宝保存法・重要美術品等ノ保存ニ関スル法律などは廃止され、日本刀を含む美術工芸品の保護は新たな枠組みに移った。
昭和23年2月(1948年)
昭和23年(1948年)2月、GHQ占領下の日本において、戦後の刀剣大量廃棄・接収の危機に対抗するため、刀剣を「武器」ではなく「美術工芸品」として位置づける専門組織「日本美術刀剣保存協会(公益財団法人日本美術刀剣保存協会、略称・日刀保)」が設立された。戦後の刀剣廃棄命令による文化財喪失の歯止めとして機能し、現在に至るまで日本刀の保存・鑑定・顕彰を行う中心機関となっている。
昭和20年(1945年)8月〜昭和23年(1948年)
1945年(昭和20年)8月の敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本全土で武器の接収を命じた。刀剣類も対象となり、一般家庭から数十万振が没収・廃棄の危機に瀕した。これに対し刀剣関係者・文化人らが奔走し、「芸術品」としての刀剣保護を訴えた結果、1948年の日本美術刀剣保存協会(日刀保)設立へとつながった。この一連の経緯は、日本刀が「武器」から「文化財」へと法的・社会的に転換した画期である。
昭和20年〜21年(1945年〜1946年)
昭和20年(1945年)末から翌21年(1946年)にかけて、徳川家の秘蔵刀にして日本刀史上最高の名刀のひとつ「本庄正宗(ほんじょうまさむね)」が、GHQ(連合国軍総司令部)への接収を経て行方不明となった事件。鎌倉時代の刀工・正宗(相州伝の完成者)が鍛えたとされる国宝級の一刀が、戦後の混乱期に永久に失われ、その所在は今日に至るまで不明のままである。
昭和13年(1938年)12月
昭和13年(1938年)12月、軍部と文化行政の連携によって刀匠認定制度が整備され、日本刀の製作が正式に国家公認の技術として位置づけられた。明治維新以降の西洋化政策で衰退した刀鍛冶の技術を保護・継承するため、技術基準と認定審査の仕組みが構築された。この制度は戦時色の強い時代において刀文化を保護する国策の一環であったが、戦後の刀匠制度の基礎をも形成することとなった。
昭和11年2月26日〜29日(1936年)
昭和11年(1936年)2月26日未明、陸軍皇道派の青年将校らが約1500名の兵を率いて蹶起し、高橋是清・斎藤実・渡辺錠太郎ら政府要人を殺害、東京永田町一帯を占拠したクーデター未遂事件。天皇の断固たる鎮圧意思を受け29日に反乱部隊は投降し、将校らは特設軍法会議で銃殺刑に処された。将校らが佩用した軍刀(九四式軍刀)は当時の尊皇的国粋主義の気運を象徴する存在であった。
明治元年〜2年(1868年12月〜1869年5月)
明治2年(1869年)、旧幕府軍が北海道・箱館の五稜郭に立て籠もった戊辰戦争最後の戦い。榎本武揚・土方歳三らが新政府軍と激闘を繰り広げ、土方は流れ弾に斃れた。日本刀による最後の大規模な組織的戦闘の一つとして、近代と古代の境界に位置する。
明治9年(1876年)3月28日
明治9年(1876年)3月28日、太政官布告第38号「廃刀令」が発布された。軍人・警察官を除くすべての者の帯刀を禁じたこの一枚の布告は、千年以上にわたって武士の魂の象徴であった日本刀を街頭から消し去り、士族の怒りを招いて翌年の西南戦争の導火線となった。同時に、日本刀を「武器から芸術・文化財」へと転換させる近代刀剣文化の出発点ともなった画期的な布告である。
明治9年(1876年)10月27日〜31日
明治9年(1876年)10月、廃刀令・秩禄処分に反発した旧秋月藩(現・福岡県朝倉市秋月)の士族約400名が、熊本の神風連の乱に呼応して蜂起した。宮崎車之助・今村百八郎らが指導し、豊津士族との連携を図ったが失敗、小倉鎮台の追討を受けてわずか数日で鎮圧された。神風連の乱・萩の乱・佐賀の乱と並び、明治9年前後に相次いだ士族反乱の一つに数えられる。
明治9年(1876年)10月〜12月
明治9年(1876年)10月、維新の元勲の一人・前原一誠を首領として、旧長州藩の士族が長門国萩(現・山口県萩市)で明治政府に対し起こした士族反乱。同月の廃刀令を直接の契機とし、熊本の神風連の乱・旧秋月藩の秋月の乱に呼応して蜂起した。約200名の「殉国軍」を組織したが、期待した西郷隆盛の協力は得られず、1週間余りで政府軍に鎮圧され、前原ら幹部は処刑された。翌年の西南戦争の先駆けとなった事件である。
明治7年(1874年)2月
明治7年(1874年)2月、前参議・江藤新平と島義勇を擁する旧佐賀藩士族が、明治政府に対して起こした士族反乱。征韓論政変で下野した江藤の征韓党と、封建復古を求める島の憂国党が結集し、約1万余の兵で佐賀城を占拠した。しかし電信と汽船を駆使した政府の迅速な対応の前に短期間で鎮圧され、江藤・島は梟首された。明治初期の大規模士族反乱の先駆けとなった事件である。
明治4年8月9日(1871年9月23日)
明治4年8月9日(1871年9月23日)、太政官は髪型を各自の勝手とし、華族・士族の脱刀も任意とする布告を出した。強制ではなく解禁であった点で、明治9年の廃刀令とは性格が異なる。
明治37年2月8日〜明治38年9月5日(1904〜1905年)
明治37〜38年(1904〜1905年)、日本帝国はロシア帝国と近代最大の陸海戦を戦った。この戦争は日本刀の位置づけを根本から変えた。西南戦争後に「実戦不要」と見なされた刀は、日露戦争での乃木希典・東郷平八郎らの活躍と日本軍の勝利を背景に「武士道の精神的象徴」として再評価され、明治32年制定の「三十二年式軍刀」が将校に普及した。
明治30年(1897年)
1897年(明治30年)、古社寺の建造物と宝物を国が保護する古社寺保存法が公布された。「国宝」の名称を法に初めて掲げ、売却と海外流出を禁じた制度で、のちの刀剣の国宝指定へ連なる出発点である。
明治2年1月5日(1869年1月26日)
明治2年1月5日(1869年2月15日)、儒学者・横井小楠が京都寺町通で十津川郷士ら攘夷派6名に駕籠を急襲され暗殺された。享年61。明治新政府参与として招聘されていた小楠は発砲と斬撃を受けて絶命した。開明的開国論者が攘夷の刃に倒れた明治政府最初の要人暗殺であり、廃刀令前夜の日本刀の実戦使用を示す事件。
明治29年(1896年)、今村長賀が読売新聞紙上で提唱し、以後数年にわたり紙上論争が継続
明治29年(1896年)、刀剣鑑識家・今村長賀が読売新聞紙上で「正宗という刀工は実在しなかった、あるいは名工と呼べるほどの存在ではなかった」とする説を提唱し、刀剣界を巻き込む長期の論争に発展した事件。後年の在銘作発見と文献発掘により今村説の論拠は覆され、今日では否定されている。
明治23年(1890年)制度設置、明治39年(1906年)4月4日 刀工任命
明治23年(1890年)、宮内省が帝室技芸員制度を設置し、日本の優秀な美術工芸家を帝室の栄誉をもって保護・奨励する仕組みを作った。廃刀令(明治9年・1876年)により日本刀需要が激減して16年後の明治39年(1906年)4月4日、刀工として月山貞一(初代)と宮本包則の2名が帝室技芸員に任命され、衰退の危機に瀕していた日本刀の伝統技術が公的に保護・承認された。