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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
昭和29年(1954年)
昭和29年(1954年)、文化財保護委員会が個々の刀工へ作刀を承認し、占領下で途絶えかけた鍛刀の実践がふたたび公に認められた。昭和28年の武器等製造法にもとづく承認制度と、翌昭和30年の人間国宝認定および新作名刀展の開始が、戦後の日本刀復興を支える枠組みとなった。
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昭和26年(1951年)6月
昭和26年(1951年)6月のサンフランシスコ講和条約署名を前後して、日本では刀剣をめぐる民間活動が急速に活性化した。GHQ占領期に抑圧されていた刀剣保存・蒐集活動が解禁の方向に向かう中、各地で刀剣保存団体の設立や博物館展示が相次ぎ、戦後の刀剣蒐集文化の礎が築かれた。日本美術刀剣保存協会(NBTHK)をはじめとする組織が整備され、刀工技術の継承体制と審美鑑定の体系化が進んだ。
昭和23年2月(1948年)
昭和23年(1948年)2月、GHQ占領下の日本において、戦後の刀剣大量廃棄・接収の危機に対抗するため、刀剣を「武器」ではなく「美術工芸品」として位置づける専門組織「日本美術刀剣保存協会(公益財団法人日本美術刀剣保存協会、略称・日刀保)」が設立された。戦後の刀剣廃棄命令による文化財喪失の歯止めとして機能し、現在に至るまで日本刀の保存・鑑定・顕彰を行う中心機関となっている。
昭和20年(1945年)8月〜昭和23年(1948年)
1945年(昭和20年)8月の敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本全土で武器の接収を命じた。刀剣類も対象となり、一般家庭から数十万振が没収・廃棄の危機に瀕した。これに対し刀剣関係者・文化人らが奔走し、「芸術品」としての刀剣保護を訴えた結果、1948年の日本美術刀剣保存協会(日刀保)設立へとつながった。この一連の経緯は、日本刀が「武器」から「文化財」へと法的・社会的に転換した画期である。
昭和20年〜21年(1945年〜1946年)
昭和20年(1945年)末から翌21年(1946年)にかけて、徳川家の秘蔵刀にして日本刀史上最高の名刀のひとつ「本庄正宗(ほんじょうまさむね)」が、GHQ(連合国軍総司令部)への接収を経て行方不明となった事件。鎌倉時代の刀工・正宗(相州伝の完成者)が鍛えたとされる国宝級の一刀が、戦後の混乱期に永久に失われ、その所在は今日に至るまで不明のままである。
昭和13年(1938年)12月
昭和13年(1938年)12月、軍部と文化行政の連携によって刀匠認定制度が整備され、日本刀の製作が正式に国家公認の技術として位置づけられた。明治維新以降の西洋化政策で衰退した刀鍛冶の技術を保護・継承するため、技術基準と認定審査の仕組みが構築された。この制度は戦時色の強い時代において刀文化を保護する国策の一環であったが、戦後の刀匠制度の基礎をも形成することとなった。
明治元年〜2年(1868年12月〜1869年5月)
明治2年(1869年)、旧幕府軍が北海道・箱館の五稜郭に立て籠もった戊辰戦争最後の戦い。榎本武揚・土方歳三らが新政府軍と激闘を繰り広げ、土方は流れ弾に斃れた。日本刀による最後の大規模な組織的戦闘の一つとして、近代と古代の境界に位置する。
明治9年(1876年)3月28日
明治9年(1876年)3月28日、太政官布告第38号「廃刀令」が発布された。軍人・警察官を除くすべての者の帯刀を禁じたこの一枚の布告は、千年以上にわたって武士の魂の象徴であった日本刀を街頭から消し去り、士族の怒りを招いて翌年の西南戦争の導火線となった。同時に、日本刀を「武器から芸術・文化財」へと転換させる近代刀剣文化の出発点ともなった画期的な布告である。
明治9年(1876年)10月27日〜31日
明治9年(1876年)10月、廃刀令・秩禄処分に反発した旧秋月藩(現・福岡県朝倉市秋月)の士族約400名が、熊本の神風連の乱に呼応して蜂起した。宮崎車之助・今村百八郎らが指導し、豊津士族との連携を図ったが失敗、小倉鎮台の追討を受けてわずか数日で鎮圧された。神風連の乱・萩の乱・佐賀の乱と並び、明治9年前後に相次いだ士族反乱の一つに数えられる。
明治9年(1876年)10月〜12月
明治9年(1876年)10月、維新の元勲の一人・前原一誠を首領として、旧長州藩の士族が長門国萩(現・山口県萩市)で明治政府に対し起こした士族反乱。同月の廃刀令を直接の契機とし、熊本の神風連の乱・旧秋月藩の秋月の乱に呼応して蜂起した。約200名の「殉国軍」を組織したが、期待した西郷隆盛の協力は得られず、1週間余りで政府軍に鎮圧され、前原ら幹部は処刑された。翌年の西南戦争の先駆けとなった事件である。
明治7年(1874年)2月
明治7年(1874年)2月、前参議・江藤新平と島義勇を擁する旧佐賀藩士族が、明治政府に対して起こした士族反乱。征韓論政変で下野した江藤の征韓党と、封建復古を求める島の憂国党が結集し、約1万余の兵で佐賀城を占拠した。しかし電信と汽船を駆使した政府の迅速な対応の前に短期間で鎮圧され、江藤・島は梟首された。明治初期の大規模士族反乱の先駆けとなった事件である。
明治37年2月8日〜明治38年9月5日(1904〜1905年)
明治37〜38年(1904〜1905年)、日本帝国はロシア帝国と近代最大の陸海戦を戦った。この戦争は日本刀の位置づけを根本から変えた。西南戦争後に「実戦不要」と見なされた刀は、日露戦争での乃木希典・東郷平八郎らの活躍と日本軍の勝利を背景に「武士道の精神的象徴」として再評価され、明治32年制定の「三十二年式軍刀」が将校に普及した。
明治2年1月5日(1869年1月26日)
明治2年1月5日(1869年2月15日)、儒学者・横井小楠が京都寺町通で十津川郷士ら攘夷派6名に駕籠を急襲され暗殺された。享年61。明治新政府参与として招聘されていた小楠は発砲と斬撃を受けて絶命した。開明的開国論者が攘夷の刃に倒れた明治政府最初の要人暗殺であり、廃刀令前夜の日本刀の実戦使用を示す事件。
明治23年(1890年)制度設置、明治39年(1906年)4月4日 刀工任命
明治23年(1890年)、宮内省が帝室技芸員制度を設置し、日本の優秀な美術工芸家を帝室の栄誉をもって保護・奨励する仕組みを作った。廃刀令(明治9年・1876年)により日本刀需要が激減して16年後の明治39年(1906年)4月4日、刀工として月山貞一(初代)と宮本包則の2名が帝室技芸員に任命され、衰退の危機に瀕していた日本刀の伝統技術が公的に保護・承認された。
明治11年5月14日(1878年)
明治11年5月14日(1878年)、内務卿・大久保利通が東京府麹町区紀尾井坂で石川・島根県士族6名(主犯・島田一郎)に日本刀で16箇所を斬られ暗殺された。享年49。廃刀令施行(1876年)から2年後に発生し、使用された刀は現在も警視庁の特別資料室に保存されている。廃刀後の日本刀が政治的暗殺に使われた最後の大事件として明治史・刀剣史に刻まれる。
明治10年3月4日〜20日(1877年)
明治10年(1877年)3月4日から20日まで17日間にわたり、肥後国(現・熊本県熊本市北区植木町)の田原坂で行われた西南戦争最大の激戦。政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍が、熊本城救援route上の要衝・田原坂の争奪をめぐって死闘を繰り広げた。政府軍は警視隊から剣術に秀でた者を選抜した「抜刀隊」を投入して薩摩軍の白兵戦に対抗し、廃刀令後に軽視されていた日本刀の実戦的価値を再認識させる契機となった。
明応2年(1493年)〜明応7年(1498年)
明応2年(1493年)から明応7年(1498年)にかけて、後北条氏の初代当主・北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆国を統一した過程。堀越御所を攻撃して足利茶々丸を追放し、5年かけて深根城を攻略、伊豆一国を平定した。これは室町幕府の権威が及ばない地方での独立的な領土統一であり、戦国大名の出現を象徴する事件である。早雲による伊豆平定は後北条氏の関東制覇への第一歩となり、やがて関東を席巻する戦国大名体制の成立を促した。
明応2年(1493年)
明応2年(1493年)、管領・細川政元が足利義材を廃して傀儡将軍を擁立したクーデター。これにより室町幕府の権威は決定的に失墜し、戦国時代の幕を実質的に開いた政変として歴史に刻まれる。
明徳3年閏10月5日(1392年10月)
明徳3年(1392年)閏10月5日、足利義満の斡旋により後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を譲渡し、56年間にわたった南北朝の分裂が終結した。日本刀の歴史において、南北朝の大太刀・大量生産の時代が終わり、義満の文化庇護のもとで刀剣が武器から美術品・外交贈答品へと転換する時代の幕開けとなった歴史的事件。
明徳2年12月(1392年1月)
明徳2年(1391年)、足利将軍家の権力を脅かすほど肥大化した山名氏清・満幸ら山名一族が、三代将軍・足利義満に反旗を翻した内乱。義満は京都周辺を電撃的に制圧し、山名氏の勢力を徹底的に削減した。この勝利は義満による室町幕府の最高権力確立を決定的なものとし、刀剣文化の後援者としての義満の絶頂期を告げた。
明和9年(1772年)2月29日(旧暦・新暦4月1日)
明和9年(1772年)2月29日(新暦4月1日)、江戸・目黒行人坂の大円寺から出火した大火は、翌日の正午まで燃え続け、江戸の約3分の1を焼き尽くした。死者14,700人、焼失家屋は10万軒以上に及ぶ江戸最大級の大火「明和の大火(目黒行人坂大火)」は、江戸に集積していた刀工工房を多数焼失させ、幕末に向けた江戸刀工集団の再編を余儀なくさせた歴史的事件である。
文禄元年4月〜文禄2年5月(1592年5月〜1593年6月)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸征服を目指して朝鮮半島に15万の大軍を送り込んだ「文禄・慶長の役」の第一次出兵。加藤清正・小西行長らが電撃的に漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍・明の援軍によって反撃され、1593年に停戦。日本刀が朝鮮・中国の兵器と初めて大規模に激突した歴史的戦争。
文禄4年7月15日(1595年8月20日)
豊臣秀吉の甥で関白の秀次が謀反の疑いをかけられ切腹。一族約30名が三条河原で処刑された悲劇。関ヶ原への伏線となった権力闘争の象徴的事件。
文治元年(1185年)10月17日
文治元年(1185年)10月、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が京都・堀川の源義経邸を夜襲したが、義経自ら応戦して撃退した。この事件を境に頼朝・義経兄弟の対立は決定的となり、義経は追討宣旨を得て挙兵するも失敗、以後奥州へと逃亡し、文治5年(1189年)の衣川館の悲劇へとつながっていく。