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明治7年(1874年)2月
肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市)
勢力
反乱軍(征韓党・憂国党)
明治政府軍(鎮圧側)
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佐賀の乱(さがのらん)は、明治7年(1874年)2月、前参議・江藤新平と島義勇を首領として、肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市)で旧佐賀藩士族が明治政府に対して起こした士族反乱である。近年、佐賀県では反乱の首謀者というイメージを避け、また戦闘の実態を反映して「佐賀戦争」とも呼称される。明治初期に相次いだ不平士族の大規模反乱の、最初の口火を切った事件として歴史的に重要である。
明治維新は、武士(士族)が主導して成し遂げた変革であったが、皮肉にもその成功は士族自身の存立基盤を掘り崩していった。新政府は徴兵制の導入、秩禄(家禄)の削減、廃刀への動きなど、武士の特権を次々と解体していった。禄を失い、誇りの拠り所であった帯刀の権利すら揺らぐ中で、士族たちの間には政府への不満が鬱積していた。
この不満に政治的火種を与えたのが、明治6年(1873年)の「征韓論政変(明治六年の政変)」である。朝鮮への使節派遣・武力行使をめぐる対立の末、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣、そして江藤新平らが参議を辞して下野した。政府中枢を去った江藤は郷里の佐賀へと帰った。
当時の佐賀では、二つの反政府的勢力が形成されつつあった。一つは征韓論を奉じ、下野した江藤新平を擁する「征韓党」。もう一つは、封建制への回帰・旧秩序の復古を求める保守的な「憂国党」であり、前秋田県権令・島義勇がこれを率いた。方向性を異にする両党であったが、反政府という一点で結びつき、混成軍を形成することになる。
政府はこの動きを警戒した。明治7年(1874年)2月、憂国党に属する士族が官金取扱業者の小野組に押しかける事件が起こると、政府は事態を重くみて、熊本鎮台の兵に佐賀士族の鎮圧を命じた。
三条実美の依頼を受けて佐賀士族の鎮撫のため帰郷した島義勇は、同船した新任の佐賀県権令・岩村高俊の佐賀士族を見下す傲岸な態度に憤慨し、また岩村が兵を率いて佐賀城に入ろうとしていることを知って、ついに挙兵を決意する。それまで不仲であった江藤と会談して結束し、共に立つこととなった。
明治7年(1874年)2月16日、征韓・憂国両党の士族は蜂起して県庁(佐賀城)を襲撃した。反乱軍は約1万余の兵力を擁し、緒戦においては政府側の守備兵を圧倒して佐賀城を占拠するなど優位に立った。しかし、彼らが期待した他県の不平士族の広範な呼応は得られなかった。
一方、政府の対応は迅速かつ組織的であった。参議・大久保利通が自ら鎮圧の指揮にあたり、電信による情報伝達と汽船による兵員・物資の輸送という近代的インフラを駆使して、熊本・東京の鎮台兵を短期間で佐賀方面へ集結させた。近代的な指揮系統と輸送力を備えた政府軍の前に、反乱軍は次第に押し返され、3月初旬までに敗走・鎮圧された。
敗走した江藤新平は再起を図って各地を潜行し、鹿児島の西郷隆盛、土佐の林有造らに決起を促そうとしたが同調を得られず、ついに捕縛された。島義勇も捕らえられた。両者は佐賀に送られ、司法卿まで務めた江藤に対してもわずかな審理しか行われないまま、江藤・島は梟首(斬首のうえ首を晒す刑)に処された。かつて司法制度の整備に尽力した江藤自身が、正当な裁判の機会を十分に与えられぬまま処刑されたことは、この事件の悲劇性を際立たせている。
佐賀の乱は、不平士族による初の大規模な武力反乱であった。この乱の鎮圧が示したのは、電信・汽船といった近代技術に支えられた明治政府の中央集権体制が、旧来の士族の武力を凌駕する段階に達していたという事実である。刀槍を頼みとする士族の武力蜂起は、近代国家の組織力と技術力の前にもはや通用しないことが明らかになった。
しかし、士族の不満そのものが解消されたわけではなかった。佐賀の乱は、明治9年(1876年)の廃刀令を契機に噴出する神風連の乱・秋月の乱・萩の乱、そして明治10年(1877年)の西南戦争へと続く、一連の士族反乱の起点となった。武士という身分と、その魂とされた刀が、近代化の奔流の中でいかに時代から取り残されていったか——佐賀の乱は、その過程の劈頭に位置する象徴的な事件なのである。