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明治9年(1876年)10月〜12月
長門国萩(現・山口県萩市)
勢力
殉国軍(旧長州藩の不平士族)
明治政府軍(鎮圧側)
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萩の乱(はぎのらん)は、明治9年(1876年)10月、維新の元勲の一人に数えられる前原一誠を首領として、旧長州藩(長門国)の士族が長門国萩(現・山口県萩市)で明治政府に対して起こした士族反乱である。同時期に起こった熊本の神風連の乱、旧秋月藩の秋月の乱と連動し、翌年の西南戦争へと連なる一連の不平士族反乱の一つに数えられる。とりわけ「廃刀令」が直接の引き金となった点で、刀剣と武士の存立をめぐる時代の転換を象徴する事件である。
前原一誠は、長州藩出身の武士で、吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作・木戸孝允らとともに幕末の尊皇攘夷運動・討幕運動に身を投じた維新の功労者である。戊辰戦争でも活躍し、明治新政府では参議・兵部大輔といった要職を歴任した。「維新の十傑」の一人にも数えられるほどの人物であった。
しかし前原は、木戸孝允ら藩閥主流の政策と対立し、新政府が推し進める急激な近代化や、士族の待遇軽視の姿勢に強い不満を抱くようになる。とりわけ、維新の原動力となった士族が、徴兵制の導入によってその存在意義を否定され、秩禄処分によって経済的基盤を奪われていくことに、前原は深い憤りを覚えていた。やがて官を辞して郷里の萩に戻った前原のもとには、同様に政府に不満を抱く旧長州藩士たちが集うようになった。
明治9年(1876年)3月、政府は「廃刀令」(正式には大礼服着用者・軍人・警察官等を除き、帯刀を禁じる太政官布告)を発した。刀は単なる武器ではなく、武士の魂であり、その身分と誇りの象徴であった。帯刀の禁止は、士族から武士としてのアイデンティティそのものを奪う措置であり、これに秩禄処分(家禄の全廃)が追い打ちをかけたことで、全国の不平士族の憤激は頂点に達した。
この廃刀令をきっかけに、明治9年(1876年)10月24日、まず熊本県で神風連(敬神党)の乱が勃発する。刀を奪われた士族たちが、神意に基づいて刀槍を手に決起したこの乱に呼応して、10月27日には福岡県で旧秋月藩士による秋月の乱が起こった。
神風連・秋月の蜂起の報に接した前原一誠は、ついに決起を決意する。明治9年(1876年)10月27日の夜、前原は旧藩校・明倫館に「殉国軍」の旗を掲げ、約200名の士族を糾合した。国に殉ずるという党名には、時代に取り残されゆく武士としての悲壮な覚悟が込められていた。
前原らが頼みとしたのは、鹿児島に在って隠然たる勢力を保つ西郷隆盛の決起であった。西郷が同調して立てば、反政府勢力は全国的な規模に拡大しうる。しかし前原の期待に反して、西郷の協力を得ることはできなかった。孤立した殉国軍は、山陰道を東進して政府に直訴しようとするも果たせず、萩へと引き返さざるを得なかった。
近代的な装備と組織を備えた政府軍(広島鎮台の鎮台兵ら)が投入されると、寄せ集めの殉国軍は対抗する術を持たなかった。挙兵からわずか1週間余りで、乱は政府軍によって平定された。
鎮圧後、前原一誠は捕らえられた。明治9年(1876年)12月3日、萩臨時裁判所で裁判が開かれたが、当初約束されていたはずの政府への弁明の機会は与えられなかった。殉国軍の首謀者・幹部8名に死刑が言い渡され、判決は即日執行された。維新に多大な功績を残した元勲の一人が、新政府への反逆者として刑場に散ったのである。
萩の乱は、神風連の乱・秋月の乱とともに、廃刀令を直接の契機として噴出した士族反乱であった。これらの乱に共通するのは、刀という武士の魂を奪われたことへの怒りであり、近代化の名のもとに武士という身分そのものが解体されていくことへの、最後の抵抗であった。
しかし、寄せ集めの士族の武力は、徴兵制によって組織された近代的な政府軍の前にことごとく粉砕された。これらの反乱の失敗は、刀を頼みとする旧来の武士の時代が完全に終焉を迎えたことを、誰の目にも明らかにした。萩の乱をはじめとする明治9年の一連の士族反乱は、翌明治10年(1877年)に西郷隆盛を擁して起こる最大にして最後の士族反乱・西南戦争の、直接の前哨戦として位置づけられている。刀を奪われた武士たちの怒りと悲哀を体現したこの事件は、日本刀と武士の時代が近代国家の成立とともに幕を閉じていく過程を、鮮烈に刻み込んでいる。