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明治9年(1876年)10月27日〜31日
福岡県朝倉郡秋月(現・福岡県朝倉市秋月)、豊津(現・福岡県京都郡みやこ町)
勢力
秋月党(旧秋月藩士族)
明治政府軍(小倉鎮台)
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明治9年(1876年)10月、福岡県秋月(現・朝倉市秋月)の旧秋月藩士族が明治政府に対して蜂起した事件が秋月の乱である。同年に相次いだ神風連の乱・秋月の乱・萩の乱は、後世「明治九年の三大士族反乱」と総称される。これに先立つ明治7年(1874年)の佐賀の乱と合わせて、明治初期を代表する士族反乱として位置づけられる。
明治維新後、新政府は近代化政策の一環として士族の特権を段階的に剥奪していった。明治9年3月に発布された廃刀令は、大礼服着用者・軍人・警察官等を除き帯刀を禁じるもので、武士の象徴であった刀を公然と身につける権利を奪った。さらに同年8月には秩禄処分(金禄公債証書発行条例)が実施され、士族に支給されていた家禄・賞典禄が打ち切られ、代わりに公債証書が交付されるにとどまった。生活基盤を失い、武士としての誇りも踏みにじられたと感じた士族層の不満は、西日本各地で急速に高まっていた。
明治9年10月24日、熊本で太田黒伴雄らを中心とする神風連(敬神党)が蜂起し、熊本鎮台司令長官らを襲撃する事件が発生した(神風連の乱)。この報に呼応する形で、旧秋月藩士族の宮崎車之助・磯淳・戸原安浦・磯平八・戸波半九郎・宮崎哲之助・土岐清・益田静方・今村百八郎ら約400名が「秋月党」を組織し、3日後の10月27日に決起した。
秋月党はまず、説得に訪れた福岡県警察官・穂波半太郎を殺害し、行動を開始した。旧秋月藩士族はあらかじめ隣接する旧豊津藩(小倉県)の士族・杉生十郎らと同時決起を約束しており、秋月党は豊津へ向けて進軍した。
10月29日、秋月党は豊津へ到着したが、旧豊津藩士族はすでに決起しない方針を固めており、杉生ら呼応を約束していた同志は監禁されていた。豊津側との交渉が続く中、豊津からの連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台の部隊が秋月党を攻撃し、戦闘の末に秋月党は総崩れとなった。
10月31日、秋月党は解散を決定し、磯淳・宮崎車之助・土岐清ら首謀格の7名は秋月へ戻る道中や現地で相次いで自刃した。徹底抗戦を主張した今村百八郎は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた討伐本部を襲撃して県の高官2名を殺害、捕らえられていた同志を解放するため酒屋の倉庫を焼き払った後、同志と分かれて逃亡したが、11月24日に捕縛された。
同年12月3日、福岡臨時裁判所において関係者への判決が言い渡され、首謀者とされた今村百八郎・益田静方は即日斬首刑に処された。その他約150名が懲役や除族などの処分を受けた。決起からわずか1週間足らずで鎮圧された秋月の乱は、神風連の乱・萩の乱(前原一誠、同年10月28日)・佐賀の乱(江藤新平、明治7年)とともに、廃刀令・秩禄処分によって武士としての存立基盤を失った旧武士層の絶望的な抵抗として記憶されている。
秋月の乱を含む明治9年の一連の士族反乱は、いずれも廃刀令への強い反発を直接の引き金としていた点で共通する。帯刀という武士の身分標識を法的に否定された士族たちにとって、蜂起そのものが刀剣文化の終焉に対する最後の抵抗であった。これらの反乱が銃器を主体とする鎮台軍によって次々と鎮圧されたことは、日本刀を主兵装とする武士的戦闘様式が近代的な軍制の前に決定的に終焉したことを象徴する出来事でもあった。翌明治10年の西南戦争でも、西郷軍の一部は刀槍を用いて戦ったが、最終的に近代兵器を備えた政府軍に敗れ、武士の時代は名実ともに幕を閉じることとなる。