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日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
242件のイベント
文治5年7月〜9月(1189年8月〜10月)
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を討伐し、奥州(陸奥・出羽)を制圧した軍事行動。平泉文化の終焉と鎌倉幕府の全国支配確立を意味する戦いであり、逃亡した源義経をかくまった泰衡への報復として実施された。
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文永11年(1274年)10月
文永11年(1274年)10月、フビライ・ハーンが派遣した元・高麗連合軍約3万が博多湾に上陸した第1次蒙古来襲(元寇前期)。集団戦法・火薬兵器という未知の戦術に戸惑いながらも、日本の武士たちは個人武芸の頂点を担う刀剣で応戦した。この戦いは日本刀の実戦的優位性と限界を同時に示し、その後の鎌倉後期刀剣技術の革新を促した転換点である。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたり、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍が北九州へ来襲した対外戦争。神風(台風)による元軍の壊滅と、日本の刀剣技術に革命をもたらした転換点として知られる。
文明6年(1474年)〜天正8年(1580年)
文明6年(1474年)に加賀国(現・石川県)で勃発した一向一揆は、天正8年(1580年)に織田信長によって制圧されるまで約100年間にわたって続き、「百姓ノ持チタル国」と呼ばれる独自の自治を実現した。一向衆が武装して守護大名・守護代を倒したこの一揆は、日本刀の実戦的側面と宗教・農民の交わりを象徴する事件として、刀剣史に深く刻まれている。
文明18年(1486年)7月26日
文明18年(1486年)、江戸城築城者・太田道灌が主君・上杉定正に謀殺された事件。文武兼備の名将の非業の死は関東の政情を混乱させ、後北条氏台頭と関東戦国時代開幕の遠因となった。
文久3年8月18日(1863年10月1日)
文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩・会津藩が連携して長州藩を中心とする尊攘過激派を京都から追放したクーデター。「文久の政変」とも呼ばれ、三条実美ら七卿が長州に落ち延びた「七卿落ち」を引き起こした。幕末政局を大きく転換させた政変として、以後の禁門の変・長州征討へとつながる。
文久3年4月13日(1863年5月30日)
文久3年4月13日(1863年5月30日)、幕末の尊王攘夷論者・清河八郎が江戸麻布一ノ橋付近で幕府刺客・佐々木只三郎らに待ち伏せされ暗殺された。享年34。浪士組を率いて上洛し京都で尊王攘夷宣言を行った直後の出来事であり、この事件が新選組誕生の間接的背景となった。幕末の政治的暗殺と日本刀の実戦使用を象徴する事件。
文久3年10月12日(1863年11月23日)
文久3年(1863年)10月、但馬国生野で公卿沢宣嘉を擁した平野国臣ら尊王攘夷派志士が挙兵した事件。大和の天誅組に呼応したが、諸藩討伐軍の出動と内部分裂によりわずか2日で崩壊した幕末最初期の草莽蜂起の一つ。
文久2年8月21日(1862年9月14日)
文久2年(1862年)8月21日、薩摩藩主・島津久光の行列を横切ったイギリス人商人リチャードソンが薩摩藩士に斬殺された事件。日本刀による外国人殺傷の代表的事例として知られ、翌年の薩英戦争の直接の原因となった。攘夷の刃が国際問題を引き起こした幕末最大の外交危機のひとつ。
文久2年1月15日(1862年2月13日)
文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外において、水戸浪士ら6名が老中・安藤信正を襲撃した事件。信正は軽傷で生き延びたものの、攘夷派の高まりと幕権の動揺を天下に示した政変となった。和宮降嫁による公武合体政策への反発が直接の動機とされる。
承平7年〜天慶3年(937〜940年)
承平・天慶年間(939〜940年)に関東を舞台に起きた武装反乱。平将門が坂東八か国を制圧して「新皇」を称し、朝廷に対抗した。藤原秀郷・平貞盛連合軍が将門を討ち取り乱は鎮圧されたが、この反乱は武士の時代の幕開けを告げるとともに、刀剣産地の関東・東国への広がりを促す歴史的転換点となった。
承平5年〜天慶4年(935〜941年)
承平5年(935年)〜天慶4年(941年)、関東の平将門の乱と瀬戸内の藤原純友の乱が同時に発生した律令国家崩壊の象徴的大乱。武士階級の台頭と日本刀剣文化の転換を告げる歴史的事件。
承元2年(1208年)
承元2年(1208年)、後鳥羽上皇は全国の優秀な刀工を水無瀬宮に招集し、月番制で交代に作刀にあたらせる「御番鍛冶制」を設立した。備前・備中・山城の名工約40名が選抜され、上皇自らも「菊御作」の号で作刀に参加した。この制度は日本刀を武器の枠を超えた芸術品へと昇華させ、鎌倉中期の刀剣黄金時代を生み出した。後世の権力者が刀工を厚遇する慣例の嚆矢となった朝廷主導の刀剣文化振興策として、日本刀史上最も重要な文化政策の一つに数えられる。
慶長元年(1596年)頃
慶長元年(1596年)頃、豊臣秀吉は本阿弥光徳を「刀剣極め所」に任命し、折紙による刀剣鑑定・評価制度を公認した。本阿弥家発行の折紙は刀工銘・時代・評価額を記す公的な鑑定書として機能し、後の享保名物帳編纂や現代の刀剣鑑定制度に連なる基盤を築いた。
慶長8年(1603年)2月12日
慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。関ヶ原の戦いから2年余りを経て実現したこの政権確立は、以後260余年にわたる江戸時代の礎となった。幕藩体制の整備、武家諸法度の制定、参勤交代制度の法制化により、武士身分と刀装文化は高度に制度化され、日本刀は武器から武士の権威と美の象徴へと昇華していった。
慶長5年9月7〜15日(1600年10月13〜21日)
慶長5年9月7〜15日(1600年)、近江国大津城(現・滋賀県大津市)において、京極高次が立花宗茂ら西軍の大軍に対して約9日間籠城した戦い。高次の果敢な抵抗は関ヶ原本戦当日まで立花宗茂ら西軍精鋭1万5千を大津に釘付けにし続け、結果として関ヶ原での東軍勝利に貢献した。「蛍大名」と揶揄された高次が、歴史的な戦略的貢献者となった籠城戦。
慶長5年9月17日〜18日(1600年)
慶長5年9月17〜18日(1600年)、関ヶ原本戦のわずか2日後、近江国佐和山城(現・滋賀県彦根市)において、石田三成の父・正継と兄・正澄が東軍1万5000の大軍を相手に籠城した戦い。守備兵力わずか2800で抗戦するも落城し、正継・正澄兄弟をはじめ石田一族の多くが自刃した。三成の権勢の象徴であった居城が消滅した、関ヶ原掃討戦の象徴的な一幕。
慶長5年9月13日〜14日(1600年)
慶長5年(1600年)9月13日〜14日、豊後国速見郡石垣原(現・大分県別府市)において、東軍・徳川方に与した黒田如水(孝高、黒田官兵衛)の軍勢と、西軍に呼応して旧領回復を図った大友義統(吉統)の軍勢が激突した合戦。関ヶ原の本戦とほぼ同時期に九州で行われたことから「九州の関ヶ原」とも称される。黒田方の勝利に終わり、大友義統は降伏して大友氏の大名としての再興は潰えた。
慶長5年9月(1600年)
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いと同時進行で奥羽の地において上杉景勝と最上義光・伊達政宗連合軍が激突した合戦。直江兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め、最上方の頑強な抵抗と関ヶ原敗報を受けて撤退した。
慶長5年8月22〜23日(1600年9月27〜28日)
慶長5年8月22〜23日(1600年)、美濃国岐阜城(現・岐阜県岐阜市)において、東軍・福島正則・池田輝政らが西軍・織田秀信(三法師)の守る岐阜城を二日で攻略した合戦。関ヶ原の戦いの前哨戦として重要な位置を占め、天下分け目の戦いに先立つ東軍の快勝が西軍の戦略的配置を大きく乱した。
慶長5年7月24日〜25日(1600年)
慶長5年7月24〜25日(1600年)、陸奥国白石城(現・宮城県白石市)において、伊達政宗が徳川家康の会津征討に呼応し、上杉方が守る白石城を攻略した戦い。名目上の城代・甘粕景継は会津に在陣中で不在、実際の防衛は景継の甥・登坂勝乃が担い、わずか一日あまりで降伏した。慶長出羽合戦の緒戦として位置づけられる。
慶長5年7月19日〜9月18日(1600年8月25日〜10月14日)
慶長5年(1600年)7〜9月、丹後国田辺城(現・京都府舞鶴市)において、文化人・武将として名高い細川幽斎(藤孝)が西軍の大軍を相手に約2か月間籠城した戦い。後陽成天皇の勅命によって和平が成立し、幽斎は「古今伝授(こきんでんじゅ)」の唯一の継承者として特別に命を救われた。和歌と刀剣を愛した文武両道の名将の最後の籠城戦として名高い。
慶長5年7月19日〜8月1日(1600年8月30日〜9月8日)
慶長5年(1600年)7月〜8月、関ヶ原の戦いの前哨戦として勃発した籠城戦。徳川家康の老臣・鳥居元忠が伏見城に立て籠もり、石田三成率いる西軍約4万に対して約1800の寡兵で十余日間防戦し、城と運命を共にした。元忠の忠義と玉砕が東軍諸将の士気を高め、関ヶ原の戦いへの序章となった。戦後、血で染まった廊下板は「血天井」として諸寺に移され、今も伏見城の壮絶な最期を伝える。
慶長17年(1612年)4月13日
慶長17年(1612年)4月13日、豊前国・巌流島において宮本武蔵と佐々木小次郎が一騎討ちを行い、武蔵が勝利した。日本の剣術史・武士道文化を象徴する伝説の決闘。