新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
日本刀にまつわる戦・事件・歴史的出来事
276件のイベント
明治11年5月14日(1878年)
明治11年5月14日(1878年)、内務卿・大久保利通が東京府麹町区紀尾井坂で石川・島根県士族6名(主犯・島田一郎)に日本刀で16箇所を斬られ暗殺された。享年49。廃刀令施行(1876年)から2年後に発生し、使用された刀は現在も警視庁の特別資料室に保存されている。廃刀後の日本刀が政治的暗殺に使われた最後の大事件として明治史・刀剣史に刻まれる。
詳しく読む →
明治10年3月4日〜20日(1877年)
明治10年(1877年)3月4日から20日まで17日間にわたり、肥後国(現・熊本県熊本市北区植木町)の田原坂で行われた西南戦争最大の激戦。政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍が、熊本城救援route上の要衝・田原坂の争奪をめぐって死闘を繰り広げた。政府軍は警視隊から剣術に秀でた者を選抜した「抜刀隊」を投入して薩摩軍の白兵戦に対抗し、廃刀令後に軽視されていた日本刀の実戦的価値を再認識させる契機となった。
明応2年(1493年)〜明応7年(1498年)
明応2年(1493年)から明応7年(1498年)にかけて、後北条氏の初代当主・北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆国を統一した過程。堀越御所を攻撃して足利茶々丸を追放し、5年かけて深根城を攻略、伊豆一国を平定した。これは室町幕府の権威が及ばない地方での独立的な領土統一であり、戦国大名の出現を象徴する事件である。早雲による伊豆平定は後北条氏の関東制覇への第一歩となり、やがて関東を席巻する戦国大名体制の成立を促した。
明応2年(1493年)
明応2年(1493年)、管領・細川政元が足利義材を廃して傀儡将軍を擁立したクーデター。これにより室町幕府の権威は決定的に失墜し、戦国時代の幕を実質的に開いた政変として歴史に刻まれる。
明徳3年閏10月5日(1392年10月)
明徳3年(1392年)閏10月5日、足利義満の斡旋により後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を譲渡し、56年間にわたった南北朝の分裂が終結した。日本刀の歴史において、南北朝の大太刀・大量生産の時代が終わり、義満の文化庇護のもとで刀剣が武器から美術品・外交贈答品へと転換する時代の幕開けとなった歴史的事件。
明徳2年12月(1392年1月)
明徳2年(1391年)、足利将軍家の権力を脅かすほど肥大化した山名氏清・満幸ら山名一族が、三代将軍・足利義満に反旗を翻した内乱。義満は京都周辺を電撃的に制圧し、山名氏の勢力を徹底的に削減した。この勝利は義満による室町幕府の最高権力確立を決定的なものとし、刀剣文化の後援者としての義満の絶頂期を告げた。
明和9年(1772年)2月29日(旧暦・新暦4月1日)
明和9年(1772年)2月29日(新暦4月1日)、江戸・目黒行人坂の大円寺から出火した大火は、翌日の正午まで燃え続け、江戸の約3分の1を焼き尽くした。死者14,700人、焼失家屋は10万軒以上に及ぶ江戸最大級の大火「明和の大火(目黒行人坂大火)」は、江戸に集積していた刀工工房を多数焼失させ、幕末に向けた江戸刀工集団の再編を余儀なくさせた歴史的事件である。
文禄元年4月〜文禄2年5月(1592年5月〜1593年6月)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸征服を目指して朝鮮半島に15万の大軍を送り込んだ「文禄・慶長の役」の第一次出兵。加藤清正・小西行長らが電撃的に漢城・平壌を占領したが、李舜臣の水軍・明の援軍によって反撃され、1593年に停戦。日本刀が朝鮮・中国の兵器と初めて大規模に激突した歴史的戦争。
文禄4年7月15日(1595年8月20日)
豊臣秀吉の甥で関白の秀次が謀反の疑いをかけられ切腹。一族約30名が三条河原で処刑された悲劇。関ヶ原への伏線となった権力闘争の象徴的事件。
文治元年(1185年)10月17日
文治元年(1185年)10月、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が京都・堀川の源義経邸を夜襲したが、義経自ら応戦して撃退した。この事件を境に頼朝・義経兄弟の対立は決定的となり、義経は追討宣旨を得て挙兵するも失敗、以後奥州へと逃亡し、文治5年(1189年)の衣川館の悲劇へとつながっていく。
文治5年7月〜9月(1189年8月〜10月)
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を討伐し、奥州(陸奥・出羽)を制圧した軍事行動。平泉文化の終焉と鎌倉幕府の全国支配確立を意味する戦いであり、逃亡した源義経をかくまった泰衡への報復として実施された。
文永11年(1274年)10月
文永11年(1274年)10月、フビライ・ハーンが派遣した元・高麗連合軍約3万が博多湾に上陸した第1次蒙古来襲(元寇前期)。集団戦法・火薬兵器という未知の戦術に戸惑いながらも、日本の武士たちは個人武芸の頂点を担う刀剣で応戦した。この戦いは日本刀の実戦的優位性と限界を同時に示し、その後の鎌倉後期刀剣技術の革新を促した転換点である。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたり、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍が北九州へ来襲した対外戦争。神風(台風)による元軍の壊滅と、日本の刀剣技術に革命をもたらした転換点として知られる。
文明6年(1474年)〜天正8年(1580年)
文明6年(1474年)に加賀国(現・石川県)で勃発した一向一揆は、天正8年(1580年)に織田信長によって制圧されるまで約100年間にわたって続き、「百姓ノ持チタル国」と呼ばれる独自の自治を実現した。一向衆が武装して守護大名・守護代を倒したこの一揆は、日本刀の実戦的側面と宗教・農民の交わりを象徴する事件として、刀剣史に深く刻まれている。
文明18年(1486年)7月26日
文明18年(1486年)、江戸城築城者・太田道灌が主君・上杉定正に謀殺された事件。文武兼備の名将の非業の死は関東の政情を混乱させ、後北条氏台頭と関東戦国時代開幕の遠因となった。
文久3年9月16日(一説に18日)深夜(1863年10月28日、一説に30日)
文久3年(1863年)9月、新選組の主導権をめぐり、近藤勇・土方歳三一派が水戸派の筆頭局長格・芹沢鴨を京都・壬生の八木邸で粛清した事件。以後、近藤を局長とする指揮体制が確立し、新選組は組織的な統制を強めていった。
文久3年8月18日(1863年10月1日)
文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩・会津藩が連携して長州藩を中心とする尊攘過激派を京都から追放したクーデター。「文久の政変」とも呼ばれ、三条実美ら七卿が長州に落ち延びた「七卿落ち」を引き起こした。幕末政局を大きく転換させた政変として、以後の禁門の変・長州征討へとつながる。
文久3年4月13日(1863年5月30日)
文久3年4月13日(1863年5月30日)、幕末の尊王攘夷論者・清河八郎が江戸麻布一ノ橋付近で幕府刺客・佐々木只三郎らに待ち伏せされ暗殺された。享年34。浪士組を率いて上洛し京都で尊王攘夷宣言を行った直後の出来事であり、この事件が新選組誕生の間接的背景となった。幕末の政治的暗殺と日本刀の実戦使用を象徴する事件。
文久3年10月12日(1863年11月23日)
文久3年(1863年)10月、但馬国生野で公卿沢宣嘉を擁した平野国臣ら尊王攘夷派志士が挙兵した事件。大和の天誅組に呼応したが、諸藩討伐軍の出動と内部分裂によりわずか2日で崩壊した幕末最初期の草莽蜂起の一つ。
文久2年8月21日(1862年9月14日)
文久2年(1862年)8月21日、薩摩藩主・島津久光の行列を横切ったイギリス人商人リチャードソンが薩摩藩士に斬殺された事件。日本刀による外国人殺傷の代表的事例として知られ、翌年の薩英戦争の直接の原因となった。攘夷の刃が国際問題を引き起こした幕末最大の外交危機のひとつ。
文久2年1月15日(1862年2月13日)
文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外において、水戸浪士ら6名が老中・安藤信正を襲撃した事件。信正は軽傷で生き延びたものの、攘夷派の高まりと幕権の動揺を天下に示した政変となった。和宮降嫁による公武合体政策への反発が直接の動機とされる。
承平7年〜天慶3年(937〜940年)
承平・天慶年間(939〜940年)に関東を舞台に起きた武装反乱。平将門が坂東八か国を制圧して「新皇」を称し、朝廷に対抗した。藤原秀郷・平貞盛連合軍が将門を討ち取り乱は鎮圧されたが、この反乱は武士の時代の幕開けを告げるとともに、刀剣産地の関東・東国への広がりを促す歴史的転換点となった。
承平5年〜天慶4年(935〜941年)
承平5年(935年)〜天慶4年(941年)、関東の平将門の乱と瀬戸内の藤原純友の乱が同時に発生した律令国家崩壊の象徴的大乱。武士階級の台頭と日本刀剣文化の転換を告げる歴史的事件。
承元2年(1208年)
承元2年(1208年)、後鳥羽上皇は全国の優秀な刀工を水無瀬宮に招集し、月番制で交代に作刀にあたらせる「御番鍛冶制」を設立した。備前・備中・山城の名工約40名が選抜され、上皇自らも「菊御作」の号で作刀に参加した。この制度は日本刀を武器の枠を超えた芸術品へと昇華させ、鎌倉中期の刀剣黄金時代を生み出した。後世の権力者が刀工を厚遇する慣例の嚆矢となった朝廷主導の刀剣文化振興策として、日本刀史上最も重要な文化政策の一つに数えられる。